ハンジ(ジャン・ジャック・ヴァルツ)Hansi (Jean-Jacques WALTZ) (1873-1951)
ハンジの肖像画(Leon HORNECKER レオン・オーネッケール作)
ハンジは本名をジャン・ジャック・ヴァルツという。ハンジというペンネームは[Jean] と[Jacques]のアルザス語表記、すなわち[Hans]と、[Jacob]の頭文字の[ j (=i) ]の組み合わせから出来ている。 ハンジが生まれたとき、アルザスはドイツに併合された後だったが、コルマールのブルジョワ階級に生まれ育ったためにもともと親仏家で、コルマールの学校ではよくドイツ人の教師と衝突を起こし、反ゲルマン気質を育ませていった。芸術家を志望するも父の反対にあい、その妥協案として彼は、1892年にリヨンの工業デザイン校へ進む。と同時に美術学校にも通う。1896年、健康上の理由でコルマールに戻らざるをえなくなったハンジは、セルネー(Cernay)で工業デザインを手がけるようになり、やがて1907年にはローゲルバック(Logelbach)の工場で仕事をするようになる。この時期に彼は水彩画法を身に付け、と同時にオーネッケールを介してストラスブールの芸術家を知るようになり、サン・レオナールの会(Le groupe de St-Leonard)の運動に参加する。また、やはりこの時期から、反ゲルマン運動に身を投じていき、風刺画を手がけるようになる。「ハンジ」のペンネームが見られるようになるのもこの頃、すなわちドイツやドイツ人に対する風刺画を描き始めた頃である。こうしてハンジは、風刺的な作品を次々に発表していき、ついに禁固刑を受けるが、その数日後に第一次世界大戦が勃発し、スイスのバーゼルへ逃れることに成功する。大戦中は、通訳としてフランス軍に入隊し、大戦が終わるとフランス軍とともにコルマールへ凱旋帰国する。この後、彼は、『フランスのコルマール Colmar en France』、『ブドウ畑の中の尖塔 Les clochers dans les vignes』、『聖女オディール山のふもとで Au pied de la Montagne Ste-Odile』といった、「フランスのアルザス」の町や村の姿を軽快な水彩画で描くようになる。また、父と同様に1923年には、コルマールのウンターリンデン博物館の館長になる。ハンジにとって最もつらい時期が、第二次大戦中のことで、南仏に逃れた後あやうくゲシュタポに捕まりそうになり、辛くもスイスに逃れることが出来る。その地で終戦を迎えると、1946年にコルマールに戻り、1951年に他界した。ハンジは、とくに第一次世界大戦前後に「フランスの子供たちにアルザスのことを忘れないでもらうために」描いた作品『アルザスの歴史 L'Histoire d'Alsace』、『私の村 Mon village』、『幸福なアルザス L'Alsace heureuse』などによって、今日、古き良きアルザスを親しみやすく描き出した画家であると思われがちだが、これらの作品は、実際はアルザスの歴史が分からなければ理解できないようなものとなっている。そのようにアルザスとフランスを単純に結びつけ、フランスのプロパガンダの一端を担ったという理由で、ハンジに対する批判は根強い。アルザスの文化は、ドイツかフランス一方の文化の上に成り立つのではなく、両文化の上に成り立っていると考えられているからである。けれども、ハンジに対する非難がある一方で、ハンジの絵そのものに対する評価は変わるものではない。多才なハンジは、皿、ステンドグラス、看板、ワインのラベルなどのデザインも手がけた。そうしたデザインの中で最も有名なのが、ポタス・ダルザス(Potasse d'Alsace)のために作ったストラスブールの大聖堂のシルエットをバックに立つコウノトリの姿のデザインである。
1.水彩画
初期の水彩画(1907年) ハンジが妹に送った絵。Jaques Feger氏寄贈
オベルネの町 (1930年頃)
ユナヴィールの村 (1940年代)
2.エッチング・リトグラフ・ポスター
冬のコルマール (エッチング)
聖ニコラウスと良き肉屋、コルマール (リトグラフ)
フランス兵との結婚、テュルックハイム(リトグラフ)
3.本の挿絵
ハンジは挿絵だけでなくいくつかの作品ではテキストも書いている。特に初期の頃の作品『クナッチュケ先生』、『アルザスの歴史』、『私の村』、『幸福なアルザス』などにおいて、反ドイツ的な風刺の才能をいかんなく発揮している。
クナッチュケ先生(1908年):ドイツ人のクナッチュケ先生がパリを観光旅行する様子を風刺的に描いたもの。ここに見られるような、「緑の服、羽根つきの緑の帽子、眼鏡姿」はハンジの作り出したドイツ人のステレオタイプである。
幸福なアルザス(1919年):第一次大戦後のアルザスを描いた作品。アルザスがフランスに戻り喜ぶアルザス人の様子や、逃げ出すドイツ人の様子を描いた作品。
フランスのコルマール(1923年)とブドウ畑の中の尖塔(1929年):どちらも作者は別。前者はコルマールの町を110枚(エッチング、水彩、デッサン)の挿絵で紹介し、後者はカイゼルスベール周辺の村々を挿絵(エッチング、水彩、デッサン)とともに紹介している。
4.ハンジの風刺
すでに述べたように、第一次大戦までのハンジはドイツに対する風刺画家・風刺作家として、また親仏家のアルザス人の代表として位置づけることが出来る。次にこのことを、『アルザスの歴史 LHistoire d''Alsace』(1912年)、および『私の村 Mon village』(1913年)の中で確認してみたいのだが、それにはアルザスの歴史や当時の状況を知らなければ理解できない部分があるだろう。
たとえばハンジは『アルザスの歴史』の中で、『ゲルマン民族の最初の侵略』について書いている。カエサルの『ガリア戦記』にもある、ローマ軍とアリオウィストゥス率いるゲルマン民族軍が、アルザスのセルネー周辺で戦ったとされる戦いについてである。その中でハンジは、まず、ゲルマン民族がアルザスに来た理由を「アルザスが肥沃で、日時計がたくさんあるから」と述べている。なぜ日時計かと言うと、普仏戦争後にアルザスにやってきたドイツ人がアルザスから古い時計をたくさん持ち出していったからであるらしい。そこでローマ時代であれば、ゲルマン人は日時計に執着していたはずだと言うのである。さて、ローマ軍と対峙したアリオウィストゥスは、カエサルに対し次のように言う。「勝利が全てを正当化する。ドイツ人は、自分たちの土地で数がいっぱいなので、より豊かな土地へ行き、そこを征服して住む権利があるのである」ここで注目しておきたいのは、それまで注意深く「ゲルマン人」という言葉を用いてきたハンジが、ここで突然「ドイツ人」という言葉を用いていることである。すなわちその瞬間に、この語を用いることによって、ローマ時代の侵略の話がいきなり当時の状況と結びついてしまうのである。戦いは当然、カエサルの勝利に終わるが、ハンジは、多くのゲルマン民族がライン川を渡って逃げるさいに溺れて死んでしまったと書いている。なぜなら、彼らの多くが背中に日時計を背負っていたからである。
アリオウィストゥスの盾の色がプロイセンの色になっている
次に『私の村』を見てみたい。この作品には「フランスの子供たちへ」という献辞が添えられている。すなわち、ドイツに対する風詩的作品というよりも、フランスの子供たちに当時のアルザスの状況を知らせると同時に、アルザスのフランスへの愛着を示すための作品となっているのである。そこには、この時点でアルザスがドイツに併合されてから40年が経過し、アルザスがフランスであったことが忘れられているのではないか、という危惧が作者の中にある。「私の村」の表と裏の表紙には、そんなハンジの切ない思いが込められている。
まず表紙の挿絵だが、アルザスの民族衣装を着た女の子が花の鉢を持って立っている。当時、(フランスから見て)失われたアルザスの象徴がいくつかあったのだが、民族衣装を着たアルザス人女性もまたそのうちの一つであった。鉢の中の花は「忘れな草」である。ということは、この絵は、「失われたアルザスを忘れないでほしい」というフランス(の子供たち)に対するメッセージになっているのである。花に添えられた「私を忘れないでください」という言葉がアルザス語で書かれていることも、アルザスへの喚起引き出すための工夫である。さらに、草原に咲いている花は、フランスの三色旗と同じ、赤、白、青だけである。裏表紙の挿絵も基本的には同じである。やはり窓辺に「わすれな草」の鉢があり、窓からは、はるか遠くにストラスブールの大聖堂のシルエットを見ることが出来る。このストラスブールの大聖堂のシルエットもまた、失われたアルザスの象徴だった。このように、今日では一見ナイーブにしか見えないハンジの絵の中には、当時の様子を知らなければ解くことの出来ない秘密がいくつも隠されているのである。
5.様々なデザイン
ポタス・ダルザスの時計このコウノトリのロゴマークで有名。
ワインのラベル
本の蔵書票