サン・レオナールの会(Le cercle de Saint Leonard)
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1871年、普仏戦争後にアルザスはフランスからドイツへ割譲される。そのさい、アルザスの知識人の多くがフランス国籍を取得し、アルザスを離れていった。ドイツは、「文化的にも言語的にも同胞であるアルザスをドイツに取り戻すことができ、アルザス人もそれを当然のように受け止めるだろう」と考えていたようである。けれども実際は、アルザス人は自分たちをフランス人であると意識していた。フランス人であることと、文化的・言語的にゲルマン的であることが、アルザス人の中では矛盾していなかったのである。そのため、ドイツに併合された後のアルザスの状況について、よく「墓場の沈黙」と言われる。
けれども、普仏戦争から20年もたつと新しい世代が育つようになっていた。彼らもまた、フランスに対し愛着心がなかったわけではないが、前の世代とは違い、ドイツに対し不毛な抵抗を続けるだけでは意味がないと考えたのである。この時代のアルザスでは、パリの文化人らとの接触がひそかに保たれていたし、アルザスにおいても何人かの自由な考え方を持ったドイツの知識人がアルザスの弁護をするようになっていた。こうした状況の中で、政治家、作家、芸術家たちの様々なグループが、新しいアルザス像を模索し、形成しようとしたのである。これが今日、アルザス意識 (Conscience alsacienne)と呼ばれているもので、1890年代になり、アルザス人は初めて「アルザスとは何か、アルザス人とは何か?」と自問し、その答えを出そうとしていたのである。
こうして全ては、聖女オディール山のふもと、サン・レオナール(St-Leonard)で始まった。ストラスブールに生まれ、普仏戦争後にパリに移住していたアンセルム・ローゲル(Anselme LAUGEL)は、父の死をきっかけにアルザスに戻ってくると、ブドウ畑を所有していたサン・レオナールに居を構えた。芸術の愛好家でも会った彼は、そこで隣村ブルシュ(Boersch)に住んでいたシャルル・スピンドレール(Charles Spindler)と知り合い、やがて二人は一緒にアルザスの田舎を回り、記録を収集したりデッサンを描いたりする(これが後に『アルザスの衣装と慣習 (Costumes et coutumes d'Alsace)』(1902年刊)にまとめられることになる)。やがて彼らの周りに若い芸術家や作家、学者らが引き付けられてやってくる。こうして誕生したのが、サン・レオナールの会 Le groupe de St-Leonardである。
アンセルム・ローゲル
彼らはまず、1895年と1896年に『アルザス図版画 (Elsasser Bilderbogen/Images alsaciennes)』を発行する。これにはドイツ人画家のジョゼフ・サットレール (Joseph SATTLER)、画家レオン・オーネケール(Leon HORNECKER)、彫刻家アルフレッド・マルゾルフ(Alfred MARZOLF)が協力していた。アルザス図版画は、サットレールがドイツに帰国したことにより廃刊となったが、このときの成功と経験をもとにスピンドレールらは、1898年から『アルザスグラビア誌revues alsaciennes illustrees』を刊行するようになる。初めはスピンドレールの自費出版の形を取っていたが、やがてピエール・ビュシェ博士(Dr.Pierre BUCHER)が雑誌の経営者となり、発行は1914年まで続いた。
上記以外の主なグループのメンバーは、ギュスターヴ・シュトスコフ (Gustave STOSKOPF)、ポール・ブローナゲル (PAUL BRAUNAGEL)、オーギュスト・カミッサール (Auguste CAMMISSAR)、陶工レオン・エルシャンジェール (Leon ELCHINGER)、俳優コクラン(Coquelin)、作曲家シャルパンチエ(Charpentier)などである。この中でもシュトスコフは、画家としてだけでなく、アルザス語劇(1898年に創立)の作者として有名で、劇のレパートリーの全てが彼一人の作品で成り立っていたと言えるほどである。
また1904年には、レオンとフェルディナン・ドランジェール博士(Docteurs Leon et Ferdinand Dollinger)およびビュシェ博士により、ストラスブールに、アルザス博物館が私費で設立される。産業革命の結果、ドイツ国内より安価な品が入ってきたことにより、農村部では人々が都会人に近づこうと古い衣装や慣習を急速に捨てていったことも、この民俗博物館創立の起因の一つであった。
ビュシェ博士
1897年にはサン・レオナールの会の主催により、ストラスブールの市立病院で、アルザスの画家と彫刻家の最初の展覧会が開かれている。この展覧会の開催により結束力を固めた芸術家たちは、後にストラスブール芸術家連盟(Verband strassburger Kunstler)を結成することになる。また、1905年には彼ら自身のギャラリーであるアルザス芸術館(La maison d'art alsacien)がストラスブールに誕生した。その最初の出品者は、シャルル・スピンドレール、ギュスターブ・シュトスコフ、レオン・オーネッケール、ロタール・フォン・ゼーバッハ(Lothar von SEEBACH)、ジョゼフ・サットレール、レオ・シュヌク(Leo SCHNUG)、リュシアン・ブリュメール(Lucien BLUMER)、ジョルジュ・ドーブネール(Georges DAUBNER)、彫刻家アルフレッド・マルゾルフらであった。
サン・レオナールの会の活動により、芸術、文化、政治など様々な分野において、アルザスとは何なのかという問題が取り上げられ、彼らの『アルザスグラビア誌』は、会のメンバーだけでなく様々な団体が寄稿することにより、当時のアルザス思潮界をリードする中心となっていた。また、良い悪いは別として、この運動が、今日のアルザス人の人格形成にも大きく影響を及ぼしたと考えられているのである。