聖女オディール (Sainte-Odile) |
オディールの生涯 (la vie de Ste-Odile)
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聖女オディール(Sainte Odile)はアルザスの守護聖女で、この聖女の遺体の安置されている聖女オディール女子修道院には、今日でも数多くの観光客や巡礼者が訪れている。十二月十四日が聖女オディールに捧げられた日である(ただしオディールが亡くなったとされる日は十三日で、この日には多くの信者が聖女オディール山の修道院で行われるミサに集まる)。1988年には、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世も同修道院を訪問した。ここでは、アルザスの守護聖女オディールにまつわる伝説やオディール女子修道院について見ていくことにしたい。
オディールが生まれたのは7世紀の半ば(660年頃)のことで、当時のアルザスは、アルザス公アダルリクAdalric(アティックAtticまたはエティションEtichonとも呼ばれている)によって治められていた。7世紀のアルザスは、ネウストリア王国とアウストラシア王国とがその領土を主張していたことから、ネウストリア国王がこの地に将軍を置き、アルザス公の称号を与えて治めさせていたが、中でも3代目のアルザス公となったアダルリクは有力者で、様々な陰謀に加担したことからネウストリア国王の不興をかうところとなり、ついには罷免され、領土も没収されてしまう。これに対しアダルリクは、アラマン族の傭兵を雇うと、アルザスの各地で略奪を行いながら、失地回復のための戦いを行うことになる。このようにアダルリクは、戦闘的で激しやすく、専制君主のような人物であった。彼は、今日聖女オディール修道院のある山の頂上(ホッヘンブルクと言う)とその山とふもとにある今日のオベルネの町にそれぞれ居城を持っていた。そのうちのオベルネの居城において、彼とその妻ベレスウィンダとの間に最初に生まれた子供がオディールである。
聖女オディール横顔(シャルル・スピンドレール C.Spindler 画)
アダルリクは跡継ぎに男の子がほしいと願っていたが、生まれてきたのは女の子だった。しかもその子は目が見えなかったのである。これを家系の恥辱と考えたアダルリクは、すぐにこの子を殺すようにと命令しました。母であるベレスウィンダはこの命令に背き、ひそかに子供を召使に託した。召使は、目の見えない子供をジュラ地方のバルマ(今日のボーム・レ・ダムと言われている)に連れて行き、そこの修道院に預ける。この修道院で女の子は成長し、やがて十二歳になったとき、ドイツのバイエルン地方で布教活動をしていた聖エアハルトがやってきて、彼女に洗礼を授けた。そのときにエアハルトが与えた洗礼名が、「神の光」という意味のオディールである。すると、洗礼を受けたとたんにオディールの身に奇跡が起きた。とつぜん目が見えるようになったのである。
その後もオディールは修道院で生活を続けていたが、やがて故郷に戻りたいと思うようになった。オディールが生まれた後アダルリクとベレスウィンダとの間には数人の子供が生まれており、そのうちの二人は息子で、兄の方は名前をユーグと言った。オディールはこのユーグに手紙を書き、家に帰りたい旨を伝える。ユーグからは喜んでオディールを迎えるという返事が届いた。けれどもこのことはアダルリクには知らされなかった。アダルリクの命令にそむいてオディールが生きていたことが分かれば、反対するにちがいないと思われたからである。はたして、ある日オディールがやってくるのを山頂の城から見かけたアダルリクは、何事かと思いユーグにたずねた。ユーグはそれがオディールであることを告げ、それまでの経緯を話した。アダルリクは話を聞いたとたん激高し、その場でユーグを打ち殺してしまったという。しかし、すぐに後悔の念にとらわれ、アダルリクはオディールが戻ることを許した。
こうしてオディールが父母や兄弟たちに囲まれて暮らすようになってからしばらくすると、アダルリクはオディールを政略結婚させようと思いついた。キリスト教徒として神に身を捧げて生きる決心をしていたオディールは、当然この申し出を断った。しかし、父から執拗に結婚を強いられたため、ついに城を逃げ出す決心をする。オディールの逃亡に気付いたアダルリクは、彼女を追いかける。オディールはライン川を超え、今日のフライブルクの山間部まで逃げたところで、とうとう追いつかれてしまった。そこは切り立った岩場の下で、追いつめられたオディールは、神に助けを求める。するとまたしても奇跡が起きた。岩がぽっかりと口を開け、オディールを中に隠してくれたのである。この奇跡を目の当たりにしたアダルリクは、オディールの願いを聞き届けてやることにし、ホッヘンブルクの城を修道院に改築することにした。こうしてオディールは、ホッヘンブルクの女子修道院の初代院長になった。これによりホッヘンブルクは、後に聖女オディール山(le Mont Sainte-Odile)と呼ばれるようになるのである。
結婚を強いられたオディール(ハンジ Hansi 画)
オディールの噂を聞きつけ、すでにオディールの生前中から多くの人が巡礼に訪れるようになった。そのためオディールは修道院のある山のふもとに、巡礼者用の宿泊施設を作った。700年頃のことで、後の時代になるとこの宿泊施設の横にも修道院が建てらた。これがニーダーマンステール(「下の修道院」という意味)だが、現在はその跡しか見ることが出来ない。ところで、この修道院と山頂の修道院との間には「奇跡の泉」と呼ばれる泉がある。それにはこんな伝説がある。ある日、オディールがニーダーマンステールの宿泊施設から山頂の修道院へ戻る途中で、たまたま一人の老人と出会った。老人は目の見えない孫の治癒を祈願するためにやって来たのだが、そこまで来て力尽きたのである。瀕死の状態にあった老人は、オディールに末期の水を求めた。けれどもオディールは水を持ち合わせていなかった。そこで、手にしていた杖で近くにあった岩をたたくと、岩の間から水が噴き出したのである。こうしてこの水は奇跡の水と考えられるようになり、今でも多くの人がこの泉を訪れ、山中から湧き出るこの水を持ち帰ったり、その場で水をすくって目を洗ったりしている。オディールは、特に目の病気を治してくれる聖女として崇められているからである。オディールが亡くなったのは、720年とされており、その遺骸は聖女オディール修道院の中にある聖女オディールの礼拝堂に安置されている。オディールは長い間アルザスの守護聖女とみなされてきたが、公式にアルザスの守護聖女となったのは、1946年6月10日のことである。
聖女オディール山とオディール修道院 (Le Mont Ste-Odile et son couvent)
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聖女オディール修道院は、山の頂上の巨大な岩盤の上に立ち、そこからはアルザス平野を見下ろすことが出来る。修道院へは曲がりくねった山道を登っていくことになるが、その途中の山頂近くの山の中に分け入ってみると、石を積み上げて出来た壁の跡を見ることが出来る。これが有名な異教徒の壁(le mur paien)で、壁は山の周囲を十キロ以上にもわたって取り巻いている。この壁が、いつ、誰によって、どのような目的で作られたものなのかはよく分かっていない。「異教徒の壁」という名前からも分かるように、キリスト教徒ではない人たち、もう少しはっきり言うと、かつてアルザスにいたケルト人たちが壁を作り、その一番古い部分は紀元前1000年頃に作られたのではないか、と考えられている。また、その目的についても、敵から守るための防御に使われたという説や、祭祀に使われたという説があり、これもはっきりとしていない。ごく最近(2001年)壁の石と石を固定するために使われていた木の破片を調べた
異教徒の壁
ところ、それが7〜8世紀のものであることが判明した。このことから、壁が作られたのはケルト人の時代ではなくアルザス公国の時代であり、その目的も、壁があまり高くなく人が住んでいた形跡も見られないことから、アルザス公の権力の誇示にあったのではないかという説が出されている。
修道院は様々な棟から出来ている。入口にある建物はもともと巡礼者用のものだったが、今日では受付や事務局になっている。入口の手前には右手に階段があり、そこをずっと下りていくと「奇跡の泉」に行くことができる。また、ここから修道院の立つ岩盤のすぐ下にある、修道院の敷地に沿って作られた散歩道に出ることも出来る。この道は駐車場の方から続く「受難の道」となっていて、イエス・キリストが十字架にかけられたときの様子を題材とした一連の大きな陶器製の絵がはめ込まれている。これは、焼物で有名なスフレンハイム(Soufflenheim)の村で、それまでの伝統的な焼物だけでなくアール・ヌーボーやアール・デコ様式の焼物を作り始めた陶工エルシャンジェール(Elchinger)が1935年に手がけたものである。
入口から修道院の中に入ると、菩提樹の植わった庭に出る。右手にはテラスがありそこからアルザス平野を一望の下に見下ろすことが出来まる。このテラスには、噴水盤がある。これはかつてニーダーマンステールの修道院に置かれていたもので、今日では使われていないが、かつては奇跡の泉の水をたくわえていた。テラスに面して立っているのが、聖母マリアに捧げられた修道院付の教会で、建立されたのは18世紀とそれほど古くはない。中に入ると、教会の壁を取り囲むようにして、やはり「イエスの受難」をテーマにした一連の寄木細工の絵が飾られている。製作者は、アルザスの寄木細工絵画の創始者として有名なシャルル・スピンドレール(Charles SPINDLER)で1934年に制作された。
奇跡の泉
「受難の道」の1枚(エルシャンジェール作)
十字架を運ぶイエス(C・スピンドレール)
祭壇には、豪華な十字架像が置かれているが、これはレプリカで、本物はフランス革命のときに行方が分からなくなってしまった。紛失したこの十字架像もやはりニーダーマンステールの修道院に置かれていたもので、伝説によるとその中には、様々な聖人の聖遺物が入っていたという。それらの聖遺物はカール大帝が集めたもので、あるとき大帝はブルゴーニュのユゴー伯に謀反の疑いをかけたことがあった。無実の罪で処刑されそうになったとき、ユゴー伯がこの聖遺物に救いを求めたところ命を救われたという。ユゴー伯を疑ったことのお詫びに、カール大帝は聖遺物を伯に譲ることにする。後にユゴー伯は、豪華な十字架像を作らせるとその中に聖遺物を入れ、それをラクダの背中にのせると、「ラクダの止まったところに十字架像を奉納するように」と五人の騎士に命じて旅立たせる。こうしてラクダが立ち止まった場所がニーダーマンステールだったというわけである。また、教会の中は、いつ行っても祈りの声に満たされている。というのも、1931年から「信奉者 Adomirateurs」と呼ばれる信者たちが、昼夜を問わず交代で祈りを捧げ続けているからである。
教会の祭壇の手前、向かって左手に小さな戸があり、そこをくぐると「十字架の礼拝堂」に出る。ここにはアダルリクの石棺が置かれており、ここがこの修道院の中で最も古い部分である。この十字架の礼拝堂の隣には「聖女オディールの礼拝堂」があり、ここに聖女オディールの遺体が安置されている。けれどもここは、もとは「洗礼者ヨハネの礼拝堂」だった。というのも洗礼者ヨハネがオディールの夢枕に現れ、彼のための礼拝堂を建てるようにと命じたことから建立されたものだからである。このときヨハネは、礼拝堂の大きさまで指定したという。十字架の礼拝堂と聖女オディールの礼拝堂の横にある回廊の壁に、洗礼者ヨハネの生涯がフレスコ画で描かれているのもそのためである。このフレスコ画は、『至福の園(Hortus Deliciarum)』というキリスト教の百科全書とでもいうべき書物の中に描かれている挿絵を模写したもので、書物じたいはホッヘンブルク大修道院(聖女オディール修道院)の院長であったヘラード・ドゥ・ランツベルク(Herrade de Landsberg)が十二世紀末に作らせたものである。原本は ストラスブールの図書館に大切に保管されていたが、普仏戦争のときに同図書館がプロイセン軍の砲撃を受け、焼失してしまった。プロイセン軍が貴重な資料や文化財を保管していた図書館を砲撃したことから、当時、とりわけアルザスの知識人はプロイセンに対して強い憤りを覚えたという。
聖女オディールの墓
洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエス(『至福の園』から)
回廊をまっすぐ通り抜けると、さらに見晴らしの良いテラスに出る。ここには礼拝堂が二つあり、そのうちの一つは「涙の礼拝堂」と言う。この礼拝堂でオディールは、生存中に残虐な振る舞いをしたためその死後煉獄にいて苦しんでいるアダルリクが天国に行けるように、涙を流しながらお祈りをしたと言われており、礼拝堂の中央には、オディールのこぼした涙によって床に出来たといわれている穴を見ることが出来る。また、涙の礼拝堂の裏には、岩にうがたれた中世の時代の棺がいくつか見られる。もう一つの礼拝堂は「天使の礼拝堂」で、北側の断崖の角のところに建っていることからもともと「角(hangen)」の礼拝堂と呼ばれていたのが、いつしか「天使(Engel)」の礼拝堂と呼ばれるようになったものである。結婚適齢期の若い女性がこの礼拝堂の周りを9周すると年内にも結婚相手が見つかるという言い伝えがあるが、礼拝堂が崖の上に建っていて落下する危険があるため、現在では柵をして通れないようになっている。
聖女オディール修道院全景
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