ジョゼフ・サットレール Joseph Sattler (1867-1931)
ジョゼフ・サットレール(自画像:蔵書票 1893年)
ジョゼフ・サットレール(Joseph Sattler)は、1867年7月26日バイエルン州のシュローベンハウゼン(Schrobenhausen)に生まれ、1931年5月12日にミュンヘン(Munchen)で没した。1876年から1880年まで両親が居を構えたランツフット(Landshut)の中学に学び、その後、装飾画家であった父のもとで金箔工の徒弟となる。
1883年頃、ミュンヘンの美術学院に入学。この期間に、レオン・オーネッケール(Leon Hornecker)と知り合うことになる。N.Gysis、Hackl、Rauppといった教授らに師事するが、彼らがサットレールにどれほどの影響を与えたかについては何とも言いがたい。というのもサットレールは、美術館に行くのを好み、中世の画家たちから着想を得ていたからであり、中でもデューラーは、彼にとって真の師匠であったからである。サットレールは、中世芸術の影響を受けた芸術家であり、ギルドの職人たちの仕事のあり方から多くのものを汲み取っていた。それは、何度も下書きをし、何度も推敲を重ね、何度も細部まで丁寧に仕上げていくといった中世の職人のあり方である。そこには、巨大化する産業革命に対する反発として、1880年頃イギリスに生まれた中世的な流れをもつアーツ・アンド・クラフトに通じるものを見て取ることができるのである。
課業を終えると、友人のオーネッケールとともにヨーロッパ旅行を行う。そして、1889年に二人はストラスブールのサン・二コラ河岸通りに居を構えた。1890年代の初め、サットレールに重要な出会いがある。サットレールが挿画を担当した『Die Quelle』の挿画を通して、シャルル・スピンドレールと知り合ったのである。この二人の出会いは、この後1893年から1895年にわたり刊行されることになる『アルザス図版画 Images alsaciennes/ Elsasser Bilderbogen』の誕生へとつながっていくことになるであろう。それはまさに、この時代における最初のアルザスの芸術運動の飛躍を告げるものであった。
サットレールの蔵書票 (Quelques ex libris de Sattler)
Heinrich Grafのための蔵書票 (1900年頃)
Friedrich Marneckeのための蔵書票(1893年)
Karl Hofbergerのための蔵書票(1900年頃)
Friedrich Marnerkeのための蔵書票(1893年)
Friedrich Marneckeのための蔵書票(1900年頃)
Lise Marneckeのための蔵書票(1893年)
Ludwig Grafのための蔵書票(1900年頃)
Karl Martin Andresのための蔵書票(1928年)
サットレールの芸術家としての第一歩は、このアルザスの地から始まったといえるであろう。アルザスは、彼に深い影響を及ぼすことになった。アルザス社会は、ドイツではすでに消滅していたはるか彼方の世界、中世のフォークロア―的な雰囲気を残していたからである。このアルザス時代、サットレールは、二つの重要な作品を残している。『死の舞踊 Die Toten Tanz』と『農民戦争 La guerre des Paysans』である。
スピンドレール(左)とサットレール(右)による第1回『芸術の鍋』のためのメニュー(1896.8.29)
『アルザス図版画1893-1894』の表紙。SpindlerとSattlerの名がある
『アルザスの農民戦争』Sattlerが1893年に『アルザス図版画』に発表した作品
サットレールの初期の作品は、ドイツ全土において輝かしい成功をおさめた。さらに彼は、『ニーベルンゲン Die Niebelungen』の挿画を手掛け、それらは1900年のパリ万博において賞を獲得した。サットレールは、細かい筆致で、中世のドイツ人歩兵、矛槍兵、ゲルマン世界の伝説的な英雄を描いていった。また、ジークフリート、マルティン・ルター、トリスタンとイゾルデ、パルシファル、ゲーテなどの連作画を創作していった。
サットレールは、1895年にストラスブールを離れ、ベルリンに居を構えた。そこには、出版者であるスタルガルトStargardtがいたからであり、1904年までここに留まることになる。このベルリン滞在時が彼の経歴の絶頂であり、『Meine Harmonie (1896)』『Durcheinander (1897)』『Die Niberungen (1898-1899)』等の重要な作品を残した。また、ドイツの美術雑誌『Die Jugned (1896,1898』『Pan (1895-1896)』に挿画を描いている。こうした活動に励みつつも、サットレールは、ストラスブールの仲間たちとの交流を続けていた。
マルティン・ルターの連作版画(10枚中の5枚)
1904年、ベルリンを離れたサットレールは、ストラスブールに戻る。そこで彼は、ジョルジュ・シュペツ(Georges Spetx)の『アルザスの伝説 Les Legends d'Alsace (1906)』の挿絵を手掛ける。サットレールは、アルザス文化に深くかかわり、そこから多くのインスピレーションを受けた画家ではあったが、アルザスという狭い地域においても、様々な芸術的対立が生ずるようになっていた。
その大きな原因が、第一次世界大戦である。1914年〜1916年にかけサットレールは、前線画家として戦争に参加し、多くのイラストを残す。1917年にはストラスブールの装飾美術学校の教授に任命されるが、戦争終結前にはミュンヘンに移り住んでしまっていた。その後、二度とアルザスに戻ることはなく、晩年は以前のような精緻な画風も見られなくなり、人生の苦渋をなめながら、1931年5月12日、ミュンヘンで息を引き取った、