聖女ユナとユナヴィール (Sainte HUNA et Hunawihr) |
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ぶどう畑に囲まれ、小高い丘の上から村を見下ろすように立っているユナヴィルの教会は、もともと大ヤコブを祀ったもので、1048年に記された「聖デオダの生涯」によると、「七世紀に町をおこして最初にその領主となったユノがこの教会を大ヤコブに捧げた」とある。この教会の中には聖女ユナの墓があり、1530年にユナは、正式に聖人と認められた。
聖女ユナ(Sainte Huna)は7世紀の人で、アルザスの守護聖女である聖女オディールとは親類関係にある。ユノ(Huno)伯爵と結婚した彼女は、リボヴィレ(Ribeauville)とツェーレンベルク(Zellenberg)の間にある城に住んでいた。
ユナは、とても裕福で高貴な家の出ではあったが、謙虚で善良だった。彼女は城の中の最も質素な部屋しか使わず、いつも貧しい人や不幸な人を助けてやり、ロバに乗って山の中まで困った人たちをたずねていき、自分の手で彼らの服を洗ってやっていた。そのため彼女は、「洗濯の聖女」と呼ばれるようになった。
ユナとユノー伯が住んでいたユナヴィルは、小高い丘の上に教会のある村である。この小高い丘の麓にある泉のすぐ横の洗濯場でユナが貧しい人たちの服を洗っていたことから、この泉は聖女ユナの泉と呼ばれるようになった。
聖女ユナはまた、様々な奇跡を起こしたことでも知られている。ブドウが不作でほとんどワインの作れなかったある年のこと、村人が家畜に水を飲ませようと泉に連れていったとき、ユナがそこにいて、水の代わりにワインを出していることに気付いたという。その話が村人全員に伝えられると、彼らはワインを入れる容器を持ち寄って泉に駆け付けた。ワインは、しばらくのあいだ流れ続け、村人たちに富をもたらしたということである。
またある晩のこと、一人の農民がユナの所有している畑にたきぎを盗みに入った。菩提樹の枝を集めて束ね、背中に背負って持っていこうとしたのだが、何度やってみても重くて地面から持ち上げることが出来ない。恐ろしくなった彼は、たきぎの束を置いて立ち去ることにした。だが、農民は予想外に早く家に戻ることになった。というのも途中で目に見えない手がいきなり彼の背中をたたき、彼を急き立てたからである。家に着いたとたん、農民はすっかりくたびれ果ててその場に倒れこんでしまったという。
ユナ夫妻には、聖デオダ(Saint Deodat)という懇意にしている聖人がいて、夫妻の一人息子に「デオダ」という名前をつけたほどであった。聖デオダはというと、夫妻の息子に洗礼を施してやり、その子が大きくなるとエベルマンステール(Ebermunster)の修道僧として迎え入れてやった。ところで聖デオダは、アルザスでひどい目にあったことからアルザスを離れ、ヴォージュの山に引きこもった。これが現在のサン・ディエ(St-Die)の町である。ヴォージュ山中で生活を始めた聖デオダは、最初はショウカや植物の根などを食べていたが、やがて冬になり、食物が手に入らなくなった。そんなある夜のこと、神様がユノ伯爵の前に現れ、聖デオダの窮状を告げた。伯爵はさっそくロバに食料を積ませたところ、ロバは勝手に聖デオダのところへ行く道を見つけ役目を果たしたという。食物を貰った聖人は大喜びした。それからは、毎週敬虔なユナがロバに食物を載せ、聖人に届けさせることになった。長い間ロバは、何の問題もなく聖デオダのところまで道を行き来していた。ところがあるとき、一匹のオオカミが荷運びをしていたロバを食べてしまった。そこでユナはオオカミに、犠牲となったロバの代わりを務めるようにと命じた。それ以来、そのオオカミは優しく従順になり、きちんと務めを果たしたそうである。
ユナヴィルの教会の周りは墓地となっていて、これは他の村ではほとんど見られない光景である。もともと墓地は教会のすぐ脇にあるものだったが、後の時代になると村の外へ移されるのが一般的だからである。小高い丘の上に建つ教会は、周りを二重の壁で囲まれている。この壁は、侵略者たちから村人が身を守るためのものであったが、ユナヴィルの面白さは、教会を二重に囲んだ壁のそれぞれの内側に立ち並んでいる墓石にある。というのも、中世の時代に領主がプロテスタントに改宗したことから村人もそれにならい、墓地もまたそれまでのカトリック派とは別のものを作る必要にせまられたことから、教会の周りにあった墓地の外側にプロテスタント派の墓地を作ることにしたのである。こうして、教会を二重に囲む壁の内側の壁の中にはカトリックの墓地が、外側の壁の中にはプロテスタント派の墓地が存在するようになったのである。
ユナヴィールの教会 (ハンジ Hansi 画)