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5月 (mai)
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4月30日から5月1日にかけての夜は、年に一度、魔女の集会(sabbat)が開かれると考えられていた。これが有名なワルプルギスの夜(Walpurgisnacht)と呼ばれるもので、アルザスにも魔女たちが集会を開くのに適していると考えられている土地がいくつかある。北アルザスのバストベルク、ストラスブールの西に位置するグレッケルスベルク、コルマールとミュールーズの中間あたりに位置するボーレンベルク、そしてスンゴウ地方のブリッツィギベルクである。これらの土地に共通しているのが、いずれも乾燥した石灰質の土地で、ある特定の植物しか生えない不毛な土地であるという点である。この日に魔女たちが集会をし、踊りを踊るという考え方がどうして生まれたかについては諸説あるが、そのうちの一つとして、ケルト人が彼らの信じる春の神エススと女神ロスメルタの結婚式を5月1日に盛大に祝っていたことがあげられる。そのさい様々な宗教的儀式や宴会が催されたと考えられ、のちにこうした異教の慣習が、キリスト教会によって、魔女の集会の日へと変貌させられていったのではないかと考えられるのである。
五月の木(Maie, arbre de mai)
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4月30日の夜から5月1日の朝にかけて行なわれていた慣習の一つに、5月の木「マイヤ(Maie)」を立てるというものがある。この慣習は、アルザスでは13世紀頃から記録されているもので、この木を立てていたのはコンスクリ(徴兵適齢者)たちであった。彼らはこっそり森の中に行き、適当な大きさの緑の木(主としてモミの木)を切り倒していた。そして、てっぺんの部分を残して枝を落とし、残った枝の部分にリボンを掛けると、やはりこっそり夜のうちに村まで運んでいき、役場や司祭館、名士たちの家の前に立てておくのである。これらは敬意の木(mais d'honneur)と呼ばれていた。こうした作業は全て人知れず行なわねばならなかったため、木を運ぶ手押し車の車輪の部分にはぼろ布を巻いたりしていたそうである。さらに若者たちは、婚約者や同じ学年の女の子の家の窓辺の前にも、彼女らへの愛情を示すために、愛の木(mais d'amour)と呼ばれる木を立てていた。これらは、前者に比べると低いものであったが、葉は残され、きれいに飾り付けられていた。それに対し、みなから浮ついていると見られている女性の家の前には、辱めの木(mai de la honte)が立てられていた。それは幹の曲がった枝振りの悪い木で、古いスリッパや壊れた人形、腐った野菜や染みのついたぼろ布など、とにかく異様な物が飾りとして付けられていた。そこで、この木を立てられる恐れのある女性たちは、その日の夜は鎧戸の隙間から道の方をじっとうかがい、誰かが辱めの木を立てに来ないかどうか見張り続けざるをえなかった。そしてもし、誰かが辱めの木を立てたら、夜明けまでに木を引き抜き、そこに木が立てられていた痕跡も消していた。そうすることで名誉を守ろうとしていたのだが、一方で彼女らが皆からどのように思われているかを知ることにもなったのである。
この辱めの木を立てるという慣習は、おそらく「5月の木を立てる」という慣習の延長として後から生まれたものであって、ここで最も大切なのは「5月の木を立てる」ということじたいにある。若者たちがこっそり森に入り切ってくる5月の木は彼らが森の中で発見した「春の到来」の証拠であり、その象徴である緑の木を村の中に立てることによって、春の生命力を村に持ち込もうとしているのだと考えられるのである。その意味においてこの5月の木は「生命の木(arbre de vie)」とみなすことが出来る。死と隣り合わせに生き、死に対する恐れを抱きながら生きていた昔の人たちは、家や教会、ふだんよく使う道具に、しばしば「生命の木」を描いてきた。それは出来るだけ死から遠ざかっているための手段であり、様々な木や枝を用いて昔の人たちは、生命の木を表してきたのである。
「5月の木」は今日でもアルザスのいくつかの村で立てられている。たとえばハプスハイム(Habsheim)では、村の歴史協会の人たちが、あらかじめ切っておいたモミの木にリボンの飾り付けをし、1日の夕方に教会前広場に立てている。この村では、昔は教会前広場だけでなく、役場、村長の家、司祭館の前にも5月の木は立てられ、さらにコンスクリたちは、前日の夜から1日にかけて、好きな女の子の家の屋根の上に枝を立てていたという話である。
5月の木を女の子に贈る若者P.コフマン(Kauffmann)による絵葉書)
5月の木を立てる(ハブスハイム、Habsheim)
教会前広場に立てられた5月の木(ハブスハイム、Habsheim)
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かつて5月25日は、ブドウ栽培者の守護聖人である聖ウルバヌスの日(La Saint-Urbain)であった。そこでブドウ彼らはこの日に聖ウルバヌス祭を行っていた。聖ウルバヌス祭に関するアルザスで最も古い記述は1251年3月21日にまでさかのぼることができる。
聖ウルバヌス祭は、朝、教会やぶどう栽培者の同業組合本部から、聖ウルバヌスの像が運びだされるところから始まっていた。聖ウルバヌス像には、ぶどうの葉の冠をつけられ、ぶどう栽培者たちの肩に担がれると、まず礼拝堂へと運ばれていった。祭が成功するかどうかは、全てこの日の天候にかかっていた。もしこの日に雨が降ろうものなら、ぶどう栽培者たちは、その年の収穫は悪くなるに違いないと考え、聖人の像に文句を言ったり、聖人の像を水の中に投げ込んだり、泥を投げつけたりしていた(前年のぶどうの収穫が悪かったときも同様だった)。アメルシュヴィルでは、もし聖人の祭の日に雨が降ると、信者たちが野次を飛ばす中、「お前が俺たちにワインをくれたくないのなら、お前は水でも浴びていろ」という言葉とともに、聖人の像を井戸の中に投げ込んでいたという。反対に、この日に晴れると、良いワインが出来るということで聖人像は歓喜の中で迎えられていた。人々は大騒ぎをし、はめをはずしてワインを飲んでいた。そして、聖人像を担いで、各ぶどう栽培者の家のワイン蔵に連れていき、必ず、ワイン樽のバッコス(ローマの酒の神)が座る場所に聖人像を座らせてた。というのも、いま出来つつあるワインを守ってくれると信じられていたからである。最後に酒場に担ぎ込むと、聖人像にワインをすすめ、酔わせようとし、聖人の名前を呼びながら乾杯していた。このように、天候に関わらず聖ウルバヌス祭は聖人に対する敬意を無視したものだったため、教会側は当然この祭を禁じようとした。実際、1550年にはベルクハイムで、3人の男が聖ウルバヌス像の顔にワインをかけた罪で、二日間の禁固刑になっている。このような大騒ぎが行われていたのも、聖ウルバヌス祭において人々は、聖人を異教の酒の神バッコスに重ね合わせていたからであろう。
今日でも聖ウルバヌス祭が行なわれているエギスハイムでは、朝、教会からあらかじめ聖ウルバヌス像を持ち出し、村の上の広場まで運んでおく。そこへ、この像の担ぎ手である前掛けをした若者たちがぞくぞくと集まってくる。時間が来ると彼らは聖人像を担ぎ挙げ、村を練り歩く。そして最後に教会の中に聖人像を運び込み、ミサが行なわれるのである。今日では、聖人像が水の中に投げ捨てられたり、各ぶどう栽培者の家のワイン蔵を訪れることはない。代わりに、教会の祭壇の前には各ワイン蔵で作られたワインがずらりと並べられ、この日のミサの時に聖別されるのである。
右手にブドウの房を持つ聖ウルバヌス像(エギスハイム、Eguisheim)
エギスハイム(Eguisheim)の聖ウルバヌス祭 : 聖人像を担いだ若者たちが教会の中に入っていく
ヴォージュの夏季移牧
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聖ウルバヌスの日はまた、昔の暦では「夏の始まりの日」にあたっていた。そのためこの日はブドウ栽培者だけでなく、たとえばアルザスのチーズ作り職人にとっても大切な日であった。というのもこの日の前後に、谷間の村からヴォージュの山の中へ、牛を夏季移牧(la transhumance)に連れて行くことになるからである。このように夏の間にヴォージュ山中で牛を放牧し、その場でチーズを作るアルザスのチーズ作り職人のことを、特にマルケール(le marcaire, d'r Marker)と呼んでいる。マルケールたちは、冬の間は谷間の家で、夏の間は山の上にある山小屋で、牛を放牧し、チーズやバターを作るのである。彼らがこうした夏季移牧を行なうようになったのは、10世紀前後のことであると考えられている。
かつてマルケールは、チーズ作りに必要な道具をろばに載せ、手伝いをする少年カスビューエ(Kasbue)だけを連れ、聖ウルバヌスの日の前後に牛を連れ、山に登っていた。山に登るのは、火曜か木曜か土曜日と決まっていた。というのも、月曜と水曜に牛を山に上げると災いがあり、金曜は魔女の日であると信じられていたからである。夏の間、彼らは山小屋で生活し、そこでチーズを作り、出来たチーズはカスブューエがろばに積んで谷間の村まで降ろし、帰りに生活必需品を持って山に戻っていた。その間、ふもとの村では、マルケールの家族が家畜の世話をしたり、畑仕事をしたり、また冬に備えて牧草の刈り入れをしていた。こうして、夏の間は牛たちに山の上の牧草を食べさせ、その間に谷間に生える牧草を、冬の間の牛たちの食料用に刈りとっておいたのである。 山に連れていかれる牛は、普通はチーズやバターを作るのに必要な雌牛だけである。けれども時には乳離れしていない仔牛を連れていくこともある。このようにして彼らが作る最も有名なチーズがマンステール(munster)である。
夏季移牧は現在でも行われているが、ほとんどの場合が、車で牛を山に上げるスタイルになってしまっている。しかし、いくつかの農家では今日で歩いて牛を山まで連れて行っている。出発する日は、お祭り騒ぎになる。この時、先頭を歩いていく牛はマイシュテルキューア(Meischterkueh)と呼ばれ、その役割が一目で分かる黄色いスイセンと白いアネモネのついた小さなモミの木を頭につけている。この2つの花は春の象徴であり、モミの木には家畜の群れを守る力があると信じられているのである。マイシュテルキューアが歩きだすと、他の牛たちはその後についていく。何度も移牧をしたことのある牛がマイシュテルキューアに選ばれるので、山の上までの道順をすでに知っており、何もしなくても勝手にいつもの道を歩いていくのである。このようにしてヴォージュの山に上がった牛たちは、そこで約4ヵ月間を過ごすことになる。そして、秋の始まりを告げる9月29日の聖ミカエルの日(la Saint-Michel)の前後に山を下りることになる。山小屋には夏の間しかいてはいけないことになっている。というのも、秋になるとマルケールたちの過ごした山小屋には、小人がやってきて同じようにチーズを作るといわれており、その姿を決して見てはいけないといわれていたからである。
夏季移牧への出発(ゾンデルナック、Sondernach):マンステールの谷間の民族衣装を着た女の子が手にしているのが、マイシュテルキューアの頭につける飾り。牛たちは、谷間の村ゾンデルナックからヴォージュ山の尾根道沿いのブライトゥーゼンまで、約10キロの道のりを歩いていく。