聖女リシャルドとアンドロー (Sainte Richarde et Andlau)

　この陰謀の先頭に立っていたのが、ある陰湿なシュバーベン人で、昔からこの男は「赤の騎士」と呼ばれている。彼が王と教会の中を歩いていたある日のこと、王妃リシャルドが合唱隊席のところまでやってきてひざまずいた。彼女はいつもそこで祈りを捧げていたのである。彼女が祈りを終えたちょうどそのとき、後陣からリュイガールが現れ、彼女を祝福した。リシャールは、立ち上がりながら、この若き司教が胸に下げていた十字架像に口づけをした。この光景を見て、赤い騎士は王にささやいたのである。「この聖なる場所で何と大胆なことを。王よ、あそこで彼らがこっそりしていることをご判断なさい！」王は、赤い騎士の憤慨した態度と言葉、さらに教会の薄暗がりの中で行われた不可思議な口づけに接し、もっとも腹黒い疑いを抱いた。妻が浮気をしていると信じ込んだのである。

　王は了承し、広場に群集が集まった。紫の長いマントをはおり、王冠をつけた王妃が現れた。彼女は胸にしっかりと十字架を押し当て、僧侶たちが死者への弔い曲を歌う中、広場の中央に進み出た。顔は青ざめていたが、目をしっかりと見開きじっと前を見すえている。そこへ松明を持った４人の召使が現れ、王妃のマントの四隅に火をつけようとした。ところが、火はマントに燃え移らず、召使たちは恐れをなして後ずさりした。そこで今度は王妃の前に、白熱の燃えさしを並べた道が用意された。彼女は素足でその上を歩いていった。すると燃えさかる炭は彼女の足の下で消えていったという。この奇跡を目の当たりにした群衆は歓呼の声を上げ、陰謀に加担した告発者たちは逃げ出した。

　この試練をくぐり抜けたリシャルドは、夫である王に向かい大きな声で宣言した。「王シャルルよ、私は火の上を通ることで身の潔白を証明しました。あなたを通して王国を救おうとしましたが、もう私たちに共通のことはありません。これから私は、その美しさが太陽も星も驚かせ、あなたよりも私の忠実さを認めてくれる人のものになります。もう二度とあなたに会うことはないでしょう。私が私を告発した人たちを許すように、神があなたを許して下さいますように」この後、リシャルドは生まれ故郷に引きこもり、そこにアンドローの大修道院を建立した。シャルル肥満王はと言うと、ほどなくフランク族によって退位させられ、惨めな状況でこの世を去った。

　ところでこの伝説には異文がある。それによると、不義の罪をきせられた王妃のために、フランク族の騎士が現れ、彼女の名誉を救うために中傷者と戦い、相手を打ちのめしたというのである。そしてそこから、さらに美しい伝説が始まることになる。この最初の試練に清廉潔白が証明されたリシャルドは、彼女のために戦った騎士を自分の騎士として召抱えることにした。すると今度は、彼女とこの騎士の噂が立てられるようになり、王もそれを信じてしまった。そこで彼女は火の試練を受けることになり、見事にそれに打ち勝ってみせた。そして、王冠も世俗の世界も捨てる決心をし、隠遁するため、ヴォージュの山奥の出来るだけ人の手が入っていない場所を見つけてきてほしいと騎士に頼んだのである。騎士はオオカミやオーロックのうめき声しか聞こえないような深い森に分け入った。やがて疲れ切り足をとめたとき、とある人里離れた谷間にきていた。そこで騎士は、早瀬で熊が子熊と一緒に水を飲んでいるところを見た。「こここそ私の王妃の隠遁所にふさわしい」と騎士はその瞬間、思った。これがアンドローの谷間だった。この伝説を記念して、アンドローの噴水の上には、足元に熊を従えた優美なリシャルドの彫刻が置かれているのである。

　アルザスの伝説に関する多くの作品を残したジャン・ヴァリオ(Ｊｅａｎ　ＶＡＲＩＯＴ）は、聖女リシャルド伝説を次のように語っている。「王妃に軽蔑された数名の侍臣の諫言により王妃が捕らえられたとき、一人の男が角笛を鳴らし、皇帝への目通りを願い出た。彼は、アンドロー候であり、人よりも熊の数のほうが多い谷に住んでいる、と名乗った。そして不実な逆臣どもを一列に並ばせると、一刀のもとに全員を討ち果たした。そこで皇帝は、リシャルドの潔白を認めざるをえなかった。彼女が解放されたとき、アンドロー候はシャルル肥満王に対して言った。『あなたは、神があなたに与えた妻にふさわしくない人だ』リシャルドもひざまずいていった。『お別れのときが来ました。私はつらい日々に別れを告げたほうが良いようです。というのも神が私を呼んでいるのですから』こうして彼女は、アルザスの人たちに付き従われ、宮廷を後にした。彼女は何日も馬をかけさせた。そんなある晩、一人の隠修士が現れ、彼女に向かって叫んだ。『気高き女よ、野生の動物たちの方へ行け。そして善き言葉を伝えるのだ。向こうの谷に行けば、一匹の黒いメス熊が地面を掘っているのを見かけることだろう。そうしたら立ち止まり、そこに神のための家を建てるのだ』言われた通り、リシャルドが先へ進んでいくと、やがて切り立った崖の間にある、急流の流れる暗い谷に入った。『ここから私の国が始まります』とアンドロー候が叫んだ。彼らは徐々に狭くなる谷間の道を進んでいった。すると突然、広々とした場所に出た。王妃は立ち止まった。一匹の黒いメス熊が道に穴を掘っていたからである。『そこで何をしているの？』と彼女はたずねた。『近づいてはなりません。牙でズタズタにされてしまいます』候は叫んだ。けれどもリシャルドは、熊の頭をなでてやった。すると熊は、体がぴんと伸びた子熊を彼女に示した。熊の目から涙がこぼれていた。リシャルドは子熊を腕に取ると、胸に押し当て温めながらこう言った。『どうしてお前はこの子を埋めようとしていたの？　この子は冬眠しているだけですよ』この言葉を聞いた母熊は、リシャルドに従順の態度を示し、彼女をなめ始めた。王妃に付き従ってきた者たちは、彼女と熊との間に交わされた奇跡の会話を目の当たりにした。こうしてリシャルドはこの地に大修道院を建立し、一方アンドロー候はと言うと城を築いた。伝説によると、修道院の奉献式の時にアンドローの谷間の熊が全てやってきて創造主を称えたという。そして、リシャルドが亡くなると、一匹の熊が道でしていたように土を掘り、彼女の遺体を掘り出し、温めようとした。それから一晩中うめき声を上げ続け、とうとう死んでしまったそうである」

　聖女リシャルドは、893年か894年にアンドローで息を引き取った。彼女の墓所の上で様々な奇跡が起きたといわれており、これにより彼女は、1049年にアルザス出身の教皇レオⅨ世により列聖された。また、1469年に、ストラスブールの司教バイエルンのロベールにより、９月18日が聖女リシャルドを祝う日となった。アンドローの教会の地下には、今日でも熊と子熊たちの巣穴の後を見ることが出来る。そこは、そこに下りていけば脚の病気を治してくれると考えられている。フランス革命のときまで、実際にそこで生きた熊を飼っていたようなのだが、子供が一人食べられてしまったらしく、それ以降は飼われなくなったという。その代わりに今日では、石で出来た熊が教会の中にいるのである。