アンリ・ルクス Henri Loux (1873-1907)
アンリ・ルクスは、1873年2月20日、北アルザスのオーエンナイム(Auenheim)に、村の教員の次男として生まれる。アンリは、アルザスのドイツへの併合を決めたフランクフルト条約の約2年後に、ドイツ文化が支配的である地方に生まれたのだが、父は教員であり、母は隣村の村長の娘で教養もあったことから、ルクス家自体はフランス文化に親しみを持つ家庭であった。1875年に父親がセッセンナイム(Sessenheim)の教員に任命されたことから、アンリは、この地で少年時代を過ごすことになる。その牧歌的な少年時代は幸福なもので、彼の短い人生の間、彼の作品に深く影響を及ぼすことになるであろう。
1884年、アンリは、セッセンナイムを離れ、兄のオーギュストとともにストラスブールのプロテスタントのギムナジウムに入学、1890年まで通学する。その間に才能が顕れ、両親を説得して芸術コースに進む決心をし、同年アンリは、出来てまだ1年のストラスブールの装飾美術学校(L'Ecole des Arts Decoratifs)に入学。そこで、レオ・シュヌグLeo Schnugや陶工Leon Elchingerレオン・エルシャンジェールと知りあうこととなる。ストラスブールで3年間学んだあと、今度はミュンヘンの芸術学院に入学、1897年に修業証書をえる。ミュンヘン滞在中、ユーゲントシュティルに接し、その影響は、アルザスに戻った後に製作されたメニュー表の装飾等に見ることができる。
ミュンヘンから戻ったアンリは、セッセンナイムには戻らず、ストラスブールに居を定める。その年、兄オーギュストが肺炎で死去。アルザスに戻ってからのアンリは、仕事面において風満帆とは言えず、その多くは、ワインのラベル、メニュー表といった挿絵が主なものであった。そのうちのいくつかは、シルティックァイムのフォア・グラ製造業者オーギュスト・ミシェル(Auguste Michel)が依頼したものである。彼はアルザスの芸術家を集めた会合(食事会)を定期的に開いており、その際のメニュー表も芸術家たちに依頼していた。この会合は『芸術の鍋 (Kunscthaafe)』と呼ばれている。
アンリ・ルクスが描いた第24回『芸術の鍋』の会合のためのメニュー表。メニューの真ん中には「鍋」が描かれ、それを吊るす鎖が「A」と「M」の形をしている。主催者、オーギュスト・ミシェルの頭文字である。会合の開かれていたシルティックァイムはストラスブールの近郊にあり、背景にストラスブールの大聖堂が見える。
アルザスの冬景色。荷車引きが描かれている。村長をしていたアンリの母方の祖父は、農民であり、荷車引きであった。
1900年には、アルザス・ロレーヌ新聞の創始者であり、同年のパリ万博におけるアルザス館の組織委員であったリボヴィレのブドウ栽培業者レオン・ボル(Leon Boll)の依頼を受け、万博向けに『アルザスのワインとブドウ畑(Vins et coteaux d'Alsace)』の小冊子のための挿絵を17枚描く(その表紙絵はシャルル・スピンドレールによるもの)。翌年には、ギュスターヴ・シュトスコフ(Gustave Stoskopf)とジュール・グルベール(Jules Greber)によるアルザス語劇『D'Heimat』のカバー挿絵を描く。また、この年に父を亡くした彼は、母をストラスブールに呼び寄せた。1902年、その後誰もが知ることとなるアンリとザールゲミンヌ(Sarreguemines)の陶器工場との関係が始まることになる。新しい食器セットの装飾である。それはもともと、シャルル・スピンドレールに依頼されたものであった。当時忙しかった彼はそのことをシュトスコフに知らせると、シュトスコフは、アンリを推薦してきたのである。1902年11月の手紙でアンリはスピンドレールに宛て、皿の最初の絵柄が完成したと報告をしている。このときから1906年までにアンリは、何度もザールゲミンヌに滞在し、新しい食器セットの装飾を製作していった。それらの絵柄は、アルザス情景を描いたもので、製作初期の頃はこのシリーズは「ルクス」と呼ばれ、まもなく「オベルネ(Obernai)」と呼ばれることなり、今日でも引き続き生産されているのである。アンリ・ルクスは他にも4枚の皿の絵柄を担当している。ギュスターヴ・シュトスコフのアルザス語劇『村長殿 (D'r Herr Maire)』の場面を描いたもので、全12枚からなり、他の8枚はフレデリック・レガメイ(Frederic Regamey)が担当した。
「アルザスのワインとブドウ畑」の挿絵
リックヴィルの街並(Riquewhir)
レオン・ボルのブドウ園
リボヴィレの街並(Ribeauville)
アンリ・ルクスが描いた、G.シュトスコフのアルザス語劇『村長殿』の場面のうちの2枚
ルクスは、1902年にナンシーの、1903年にはストラスブールの展覧会に出品。また、同年10月には、ヴィルヘルム・ショイエルマン(Wilhelm Scheuermann)と共同で、『新アルザスグラビア誌 (Neue Elsasser Bilderbogen)』を発刊。他にもレオ・シュヌック(Leo Schnug)らが参加したが、13号で廃刊となってしまった。
ルクスは、とりわけデッサンや水彩画を多く残したが、それというのも彼は若く、財政上の理由から挿絵などの注文を多く受けざるを得なかったからである。1906年、彼は最初の病気の兆候を感じるようになり、その年の内にストラスブールの病院に入院。翌年、1月19日に帰らぬ人となった。おそらく重い肺結核を患ったことによる心臓疾患が理由であろうと考えられている。ストラスブールの文化人や芸術家らは、彼の死を強く悼み、その一月後には彼の仲間たちにより、最初の回顧展が開かれた。34才の若さで逝ってしまったルクスは、彼の計画を実現する時間や、挿絵、何枚かの油絵、ザールゲミンヌの陶器工場のために作成された絵柄以外の作品をこの世に残すことはなかった。しかしながら、とりわけ『オベルネ』の陶器の絵柄により、彼の名前は永遠に人々の記憶の中に生き続けることであろう。