3月 (mars)

四旬節 (le Careme)と四旬節の中日の慣習

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灰の水曜日から復活祭の行なわれる前日の聖土曜日までの40日間は、四旬節(le Careme)と呼ばれ、この期間は食事を制限して過ごさなければならなかった。けれどもそれがあまりに長い期間であったことから、その中間にあたる日を中休みとし、様々な催しが行なわれるようになった。正確には、四旬節の中日にあたる日は木曜日だが、実際にこうした催しが行なわれていたのは、その後に続く日曜日(バラの日曜日とも呼ばれている)である。

 四旬節にしろカーニヴァルにしろ、それらの日程は復活祭の日を基準に決められている。その復活祭は移動祝祭日で、「春分後の最初の満月の次の日曜日」と定められており、実際には3月22日から4月25日の間の日曜日に来ることになる。従って、四旬節中日の祭りも、たいてい3月中に行なわれていたことになる。そこでこの【3月】のところでは、主に四旬節中日(Mittelfaschtzit,La Mi-Caremeに行なわれていた慣習を概観し、次の【4月】のところで、その後に続く聖週間と復活祭の慣習を見ていくこととする。

雄鹿のヴァイオリン引き (Hirzgiger,le violoneux du cerf)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつて高地アルザスの村を、ライ麦の藁をかぶった男たちが、必ず田舎のヴァイオリン弾きを一人つれて現れていた。彼らは、ライ麦で出来た長靴を頭からかぶり、腰の辺りでひもでしばってそれをとめた姿で、それぞれの農家の中庭に入っていき、踊りを披露してから、寄付を募る歌をうたっていた。この慣習は、1870年頃になくなってしまったということである

 別の記述によれば、高地ライン県のいくつかの村では、二つの大戦の間くらいまでそれが行なわれていたそうである。この場合は、一人の男の子がやはり藁をかぶり、仲間の若者たちがこん棒と鎖を持って、藁をかぶった男の子を護送するかのように取り囲み、彼らのうちの一人が寄付として貰う物を入れるかごを持って、一緒に村中を歩いていた。こうして家から家を回り、寄付を募るのだが、彼らはまず家の前まで来ると、次のような歌をうたっていた。

今日は四旬節の中日。明かりは箪笥にしまってある、冬はとっても寒いので。緑の森の前に三本の赤いバラ。私たちに洋梨を一つだけください、悩むような問題じゃないでしょう。クエッチュの実を一つだけください、困ることなんてないでしょう。スモモを一つだけください、後悔することじゃないでしょう。卵を一つだけください。もし卵をくれないのなら、イタチが雌鶏を捕まえちゃうぞ。雄鹿よ、跳ねろ」  (リクスハイム)

 この最後の言葉を合図に、藁をかぶった男の子が、奇怪な踊りを披露していた。この踊りは、冬の脅威を表しているのではないかと考えられており、仲間の若者たちは、こん棒や鎖で、この冬の魔物をしっかりと捕まえていて、それに対する報酬を村人たちに求めているのである。このことは、次に触れる「イタチ」の寄付を募る行列のところでも再確認することになるだろう。寄付を募って歩く行列が終ると、若者たちは、ライ麦で出来た藁の服装を堆肥の上に捨て、最後に宴会を催していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イタチ」の行列

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつてビュシュヴィレールでは、コンスクリ(徴兵適齢期の若者)たちが巨大な藁人間を引き回しながら寄付を求めて歩いていた。その主役である巨大な藁人間の呼び名が、イタチ(D'r Iltis, le putoisである。「イタチ」は、高さが四メートルにまで達していたが、その高さの半分程を占めていたのが、頭の上に載っていた帽子である。帽子は、ライ麦の藁を束ねてのばし、先を尖らせて作ってあった。ライ麦の藁が使われていたの理由は、ライ麦の茎が穀草類の中で一番に長かったからである。イタチの体や手足もまた、ライ麦の藁によって作られる。イタチ役になる若者の体に沿って藁を縦方向に巻いていき、ひもで丁寧にとめられる。さらに藁を編んで作った長いしっぽが、地面を引きずるようにとりつけられる。最後に腰の辺りに頑丈な縄を二本巻きつけると、これで準備完了である。この縄は、コンスクリ(徴兵適齢期の若者たち)たちが、イタチを引き回すのに用いるものである。ところで、イタチを作るための材料となる藁は、村人に頼んで貰い受け、祭りが終るとまた持ち主に返していたのだが、時には誰も藁をくれないような場合があった。その場合には、勝手に誰かの藁置場に入っていって、藁を持ち出していいことになっていた。というのもこうした祭りは、公的な意味合いを持っていたからである。この種のちょっとした盗みは、他の祭り(スルツバック・レ・バンの聖ヨハネの日の火祭りの時など)の時にも見ることが出来るものである。

 

        

 

 

 

 

 

 イタチを連れた寄付集めは、午後一番に出発していた。コンスクリのうち二人が、先端がらせん状になったこん棒を持ち、イタチを逃がさないようにするための縄をしっかり持つ。他のコンスクリたちは寄付された物を入れるためのかごを持ったり、行列の先触れとなる笛を吹いたりする。こうしてイタチを連れたコンスクリの一群は、決まった歌をうたいながら村中を歩いていく。彼らはお金を貰うこともあったが、もともと寄付集めの対象となっていたものは卵だった。彼らがうたっていた歌は次のようなものである。

 僕らはそいつを捕まえた、槍とごんぼうで。僕らはそいつを雌鶏の糞で追い払う。僕らに卵をくれたくないなら、5フラン下さいますように。さもなきゃ、イタチが雌鶏を取りにいくよ。三週間後の今日に、僕らは卵と肉を食べるよ」

  このようにして卵(やお金)を集め終ると、コンスクリたちは、彼らのうちの誰かの家でイタチの藁を脱がしてやり、藁を持ち主に返していた。そして、貰った卵の数を数えたり、お金の計算をしたりしてから、最後に仲間内で宴会を催していた。コンスクリたちが寄付を募って歩くとき、貰う対象となっていたものはそもそも卵であったが、復活祭の時や聖霊降臨祭など他の様々な機会にも寄付の対象となっていた卵は、《新しい生命の象徴》と考えられていた。一方、イタチはというと冬の寒い間に鶏小屋を襲い、鶏や卵を食べようとする動物であることから、人間にとって有り難くない、冬の、不吉な、卵の中に芽生えている生命を奪ってしまう動物というふうに考えられていた。そのイタチをコンスクリたちが捕まえてきたわけだから、村人たちは当然のことながらその報酬を彼らに渡さねばならず、もし何も渡さないような人がいたら、その人は春の到来を待ち望まないような人、すなわちイタチに鶏小屋を荒らされても構わないような人ということになってしまうのである。このイタチ役を誰がやるかは秘密にされていて、その正体をすぐにばれないようにするため、若者たちはわざわざ隣村の出身者からイタチ役を選ぶこともあったという。また、イタチ役の若者は、顔に煤を塗るか仮面をつけたりして自分の正体を隠そうとし、村人たちは誰がイタチ役をしているのか盛んに質問したり、子供たちは誰が中に入っているのか知るためあれこれ試みようとしたりしていたが、コンスクリたちは、時には持っているこん棒を振り回しながら、頑なに秘密を守ろうとしていたという。コンスクリたちがイタチの素性がばれないようにしていたのは、そのイタチが人間界の存在ではなく、自然界に存在する冬の象徴であることを強調したかったからなのだと考えることができる。イタチが、実際にはイタチの姿をしておらず「藁男」のような風体であるのも、それが冬の象徴に他ならないからである。藁は不毛の象徴であり、冬の象徴なのである。

 

 

       

                            

 

 

 

 

 

 

 四旬節中日の卵の寄付集め

 

イタチ

 

 

 

 

 

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四旬節中日の卵の寄付集め (Attenschwiller)

四旬節の第五日曜日

「イタチ」の行列 (Buschwiller)

(二枚の写真とも『A la quete de l'Aslace profonde』より転写)

 復活祭の二週間前、四旬節の第五日曜日(le dimanche Judica)に、かつてカトリック派の教会では、十字架像や聖人の像に、紫色の布が掛けられていた。悲しみの気持ちを表すためである。布が再び取り払われ、十字架像が人の目に触れられるようになるのは、聖金曜日のミサの時のことだった。そのさい信者たちはお金や卵を持ってきて、布が取り払われた十字架像の下にそれらを置いていた。