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6月 (juin)
聖霊降臨祭(D'r Pfingschte, la Pentecote)
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聖霊降臨祭 (La Pentecote,D'Pfingschte)は、復活祭から数えて50日後の日曜日に定められている祝日で、翌日の月曜日も祝日に定められている(2005年からフランスでは翌日の月曜日は平日となった)。この名は、「復活祭から数えて50日」を意味する「ペンテコステ(五旬節)」からついたもので、イエスが昇天してから10日目にあたるこの日、イエスの弟子たちが集まって食事をしていると、突然、聖霊が火の舌となって降りてきて、聖霊が語らせるままに弟子たちはいろいろな国の言葉で語り始めたと言われている。これをきっかけにイエスの弟子たちが各国への伝道を始めたことから、この日は「聖霊が降臨した日」として祝われるようになった。
聖霊降臨祭の日には、春に関連した様々な行事が行なわれていた。それらは普通「少年たちによる行列」という形を取っていて、たいていの場合、「藁で覆われていたり黒い仮面をつけた人物」を連れるか、「春の再生力を象徴する緑の草で覆われた人物」を連れ、寄付を募りながら村の中を歩いていた。この行事は、フランス語では聖霊降臨祭の雇人たち(Les valets de Pentecote)と呼ばれ、アルザス語では聖霊降臨祭の虚弱者(D'r Pfingschtpflitteri)と呼ばれる。この違いは、前者が祭りの主体である少年たちにちなんで名前がつけられているのに対し、後者は少年たちが連れて歩く「藁や緑の草で覆われていたり、黒い仮面をつけた人物」に与えられている名前にちなんでつけられているためである。アルザス語による名称は、それぞれの村でその人物をどう呼ぶかによって、名称も異なってくる。そのため村ごとに異なる呼び名でこの祭りの紹介をしていくとややこしくなるので、ここではフランス語による一般名称である「聖霊降臨祭の雇人たち」を用いることにする。フランス語の「valets」にもいろいろな意味があるが、ここでは「雇人たち」の訳語を使うことにした。というのもこの日は、農家で雇われていた羊飼いや豚飼いといった家畜の番人たちの祭りの日でもあったからである。この日羊飼いや豚飼いたちは、人々の前で踊りや鞭の腕前を披露していた。そして、翌日の月曜日から、村中の家畜を集めて村共有の牧草地に連れ出していたのである。
この日はまた、農民たちにとっても重要な日だった。雪解け後初めて、馬に乗り、彼らの耕作地の境界線を確認する日にあたっていたからである。まだ測量法がなかった昔、それらを確認するには人々の記憶だけが頼りだった。そのさい若者たちは、熟練した大人の後をついていき、境界線の確認の仕方を覚えていたのである。領地を一回りするには、四辻や村の境界、橋などを通らねばならないが、そうした場所は悪い霊が行き来する危険な場所と考えられていた。そこで若者たちは、悪い霊を避けるために仮面をつけた。そして無事に境界線を確認して戻ると、冬の悪魔に勝利したことを喜び、草競馬に興じた。昔の人にならい、鞍も手綱もつけずに耕作地の向こう側まで走って戻って来るのである。このようにして彼らは、熟練した大人たちと同じように、悪い霊を恐れることなく領地をみて回る勇気があることを、また巧みに馬を操れることを見せねばならなかった。聖霊降臨祭の日は、若者たちが、大人の仲間入りを果たすための試練を受ける日でもあったのである。この草競馬のあとには、賞の授与があり、賞品を用意するのは女の子たちの役目だった。彼女たちは、あらかじめ寄付を募って歩き、ハンカチ、ネクタイ、煙草入れ、鞭用の皮紐などにリボンをつけた賞品を用意しておいた。こうした競馬遊びは、1850年頃には全く行なわれなくなってしまったが、その名残りをとどめる催し(乗馬競争や民族衣装を着た人たちによる踊りなど)が今でもアルザスの北の町ヴィッサンブールで行なわれており、さらにいくつかの村では、この日に馬の洗礼も行なわれている。
聖霊降臨祭の日は、復活祭をもとにして決まるため移動祝祭日となっており、5月から6月の間に祝われるのだが、ここではこの【6月】の章で、聖霊降臨祭の日に行われる行事を取り上げることにする。
聖霊降臨祭の雇人たち(D'r Pfingschtpflitteri, les valets de Pentecote)
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聖霊降臨祭の雇人たちの祭りは、今日ではほとんど行なわれなくなってしまったが、今でもマンステールの谷間にあるスルツバック・レ・バン(Soultzbach-les-bains)では、この伝統行事が続けられている。しかしながら、子供たちが興味を示さなくなってしまったことから、村の歴史協会の人たちがこの祭りを復活させる2002年まで、10年ほど途絶えていた時期があり、その間に祭の形態も以前とは異なってしまった。ここでは、スルツバック・レ・バンにおける伝統的な聖霊降臨祭の雇人たち(スルツバック・レ・バンでは、「プフィングシュトゥフリットリ」と呼ばれている)の祭りがどのようなものであったのかを中心に見ていくことにしたい。
スルツバック・レ・バンの村では、かつて聖霊降臨祭の日曜日の朝に、14歳から15歳くらいの少年たちが人知れず村との境にある森の中に集まっていた。そこで、聖霊降臨祭の雇人たちの祭りに使う、お神輿のようなかごを飾りつけるためである。このかごは、6人の持ち手で担ぐようになっていて、中に人が入るための板が敷いてあり、かごの後ろにある開き戸から中に入れるようになっている。少年たちはこのかごの内側が外から見えないように、念入りにエニシダの枝で隙間なく埋め尽くすように飾っていく。というのもこのかごの内側には、セッパラ (Seppala)と呼ばれる少年が入ることになるのだが、セッパラの正体は誰にも知られてはならないことになっているためである。
かごを緑の葉で埋め尽くすと、次に少年たちはその日の役割を決める。まずかごの中に入るセッパラ役だが、当然その役には体重の軽い小さな少年がが選ばれることになる。セッパラ役の少年は、エニシダの枝を持ってかごの中に入る。そして行列が進む間、枝をかごの天辺から突き出し、ときどき振ってみせることで、かごの中にセッパラと呼ばれる何者かが捕まっていることを証明して見せるのである。次に、セッパラを守る4人の「警護」を決める。警護役は、てっぺんの部分だけ残して枝を切り落としたブナの若木を持つ。これが、警護をするときの武器になり、かごに近づいてセッパラの正体を知ろうとする者がいると、この木を振り回してそれを追い払うのである。
午後になると、いよいよ「聖霊降臨祭の雇人たち」の行列が出発する。セッパラがかごの中に潜り込み、6人の担ぎ手がかごを持ち上げ、4人の警護がその周りを固め、残りの少年たちは小さな鐘やトランペットを鳴らし、大きな音を立てながらかごの後をついていく。こうして彼らは、村の中を練り歩きながら、ときおり次のような歌を歌う。
「プフィングシュトゥフリットリがやってきた/すてきな服を着て/ナナ、ナナ、ナナ/ ナナ、ナナ、ナナ」
この騒ぎに気付いた村人たちは、窓から顔を出したり、家の前に出てきたりし、少年たちに少しお金を渡しながら、「セッパラ、ヴァイ(セッパラよ、振れ)」と叫ぶ。するとセッパラは、かごの天辺から突き出したエニシダの枝を振って見せるのである。一方、行列に参加していない子供たちは、ちょっかいを出したり、かごの中に誰がいるのか知ろうとしたりする。すると警護の少年たちが持っている木を振り回し、たちの悪い子供たちを追い払おうとするのだが、冷やかしの子供たちはすぐに戻ってくる。行列はまた、寄付を受けるときだけでなく、村にいくつもある噴水や、村の中を流れる水場のところでも止まる。そのさい、警護の少年たちは、噴水の水に彼らの武器である木の枝を浸す。こうして水をたっぷり含ませた木の枝を振り回すと、この時ばかりは、かごの周りに群がって来る野次馬の子供たちも、水を掛けられては大変と一目散に逃げ出していく。
祭りのクライマックスは、行列の終点となる村外れの小さな橋の上でやってくる。そこまで来ると担ぎ手たちは、運んできたかごを持ち上げ、そのまま下を流れる小川にかごを投げ捨ててしまうのである。かごの中にいるはずのセッパラはというと、最後に行列が止まったときに喧騒にまぎれてかごから抜け出しているため無事である。このようにしてセッパラが入ったように見せ掛けたまま、かごを小川に投げ捨てることで、一連の祭りは終わる。参加した少年たちは、このあとみんなで食事会を催していた。現在では、村の歴史教会の人たちがかごを作り、木の枝を用意している。行列には少年だけでなく女の子も参加しており、楽器を持つものはおらず、担ぎ手以外は全員が木の枝を持って警護役となっている。セッパラ役の子供もやりたい子が交代で行っている。祭りが終わると、歴史教会の人たちがご褒美にお菓子やジュースを振舞っている。
祭りの「かご」の骨組み 村の中の噴水の一つで木の枝を水に浸す
「かご」を運んでいく 最後に「かご」を小川に投げ捨てる
春から夏にかけて行なわれる行事には、夏の収穫が豊作となるように作物の成長を促し、その妨げとなるような悪い霊を追い払うという意味が込められていた。その中でも聖霊降臨祭の雇人たちの祭りは、5月の半ばから6月の初めの間の時期、すなわち春はまだ訪れたばかりで力が弱く冬の悪魔の影響力が根強く残っていると考えられていた時期に行なわれるものであったから、そのような考え方を念頭にこの祭りが行なわれていたと考えることが出来るだろう。
たとえばセッパラを警護する少年たちが持つブナの木は、セッパラの正体を知ろうと試みる子供たちを追い払うためだけではなく、まだ村の中に潜んでいる可能性のある冬の悪魔を追い払うためのものであるとも考えられる。また、彼らが噴水や水場でブナの木に水を浸すのも、やはり野次馬の子供たちを追い払うためだけではなく、途中で木の枝についたに違いない冬の悪魔のけがれを清めるためであり、かつて行われていた鐘やトランペットを鳴らすことで騒音を立てていたのも、これによって同様に冬の悪魔を追い払うことができると信じられたからであろう。さらにこの木を「五月の木」と考えることも可能である。
祭りの中に登場するセッパラ(=プフィングシュトゥフリットリ)は、蘇りつつある春の再生力の象徴であると考えられている。そして、スルツバック・レ・バンで最後にセッパラが小川に落とされる理由は、そのようにしてセッパラを小川に落として儀礼的に殺すことにより、それの持つ生命力を自然界に拡散させようとしているのだと考えられている。他の高地ライン県の多くの村と同様に、スルツバック・レ・バンでは、この祭りを「聖霊降臨祭の虚弱者(プフィングシュトゥフリットリ)」と呼ぶが、その理由はかごの中に捕らえられている精霊が「生まれて間もない春の蘇り」としてイメージされていたからであろう。それに対し、少年たちが連れて歩くこの人物に「聖霊降臨祭の熊」「聖霊降臨祭の雌豚」といった動物の名前や、「聖霊降臨祭のみじめな男」「聖霊降臨祭のいたずらお化け」「聖霊降臨祭ののろま」など芳しくない名前、また「聖霊降臨祭の棍棒」といった名前がつけられる場合があったが、これらは「まだ完全に去っていない冬」をこの人物の中にイメージしたからではないかと考えられるのである。
聖体の祝日(Froleichnamfest, La Fete-Dieu)
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聖霊降臨祭の2週間後の日曜日は、聖体の祝日 (Fronleichnamfest,La Fete-Dieu)にあたる。聖体(ホスティア)とは平らな円盤型の種なしパン(酵母の入っていないパン)のことで、「イエスの体」を表わしており、聖体拝領やミサの時に聖別して信者に与えられるものである。聖体の祝日というのは、その名の通りこの聖体を讃えるための日で、もともとそれは三位一体の祝日の次の木曜日に祝われていたのだが、フランスではかなり前から聖霊降臨祭後の日曜日に祝われるようになった。それに対しドイツでは、今でも木曜日を聖体の祝日の日として祝っている。
聖体の祝日がアルザスでも祝われるようになったのは14世紀の初頭のことで、14世紀後半には、今日見られるような「聖体の行列」がドミニコ会士ジャン・タウラー(Jean Tauler)によって導入された。この聖体の行列とは文字通り、聖体を教会の外に持ち出し、聖体の入った聖体顕示台を司祭が掲げながら、聖職者と信者らが一緒になって行列を作り、町の中を一周してくる行事である。このような行事が始まったのは、教会側が、ミサを見たいという一般信者たちの要求に答えた結果ではないかと考えることが出来る。というのも今日と違い中世の大きな教会の中は、内陣仕切り壁で、祭壇や合唱隊席のある部分と信者たちの座席のある部分とが隔てられており、一般信者たちからは内陣仕切りの向こう側で行なわれているミサの様子を見ることが出来なかったからである。
今日でも昔ながらの盛大な聖体の行列を続けているのが、ガイスポルスハイム(Geispolsheim)である。この村では、教会でのミサの後、聖体の行列が教会前の通りから出発し、途中に設けられた4つの仮祭壇のところで短いミサを挙げながら、アルザスの木組みの家の立ち並ぶ旧市街を一周して戻って来るのである。4つの仮祭壇は組み立て式になっており普段は地区の決まった家に保管されているが、祭りの日には地区の住民が総出で仮祭壇を組み立て、飾りつける。村のそれぞれの家の前には潅木(マイヤと呼ばれている)が立ち並び、道の真ん中は葦の葉が敷き詰められ、さながら緑の絨毯のようである。さらに家々の窓の下には、大小とりどりのフランスの三色旗、白と黄色の教会の旗、赤と白のアルザスの旗、青と白の聖母マリアの旗がひるがえり、いくつかの家の窓辺にはイエスや聖人の像も出され、像の周りはロウソクや花束で飾られる。これらは全て村の人たちが自主的に行っていることである。
行列に参加する子供たちは、ほとんどが「ユリ」「羊」「羊飼い」と呼ばれるいずれかの衣装を身に付けている。大人たちは民族衣装を身にまとうが、楽団員らは黒い上着なしの赤いチョッキ姿、教会の中に安置してある二体の聖母マリア像や聖マルガレタ像の担ぎ手となる若い女性たちはガイスポルスハイム独特の民族衣装(大きな赤いリボン、肩には房飾りのついた黒いショール、また白く透き通ったレース模様の前掛けと前掛けを通して淡いピンク色に見える赤いスカート)、年配の女性たちは、基本的には若い女性たちと同じだが前掛けは黒、最後に、教会の中に安置してある聖セバスチャンの像の担ぎ手となる男性たちはほとんど黒づくめの民族衣装を身につけ、胸のところから縦一列にずらりとつけられた金ボタンだけがアクセントになっている。
これら着飾った住民たちの後に続くのが、聖体顕示台を手にした司祭のグループである。司祭は四角い移動天蓋の下に入っている。この移動天蓋は四本の支柱で支えられており、支柱のそれぞれに把手がついていて、4人の男性によって運ぶように作られている。この移動天蓋の運び手を務めるのは、村長や教会の管理責任者など村の名士と考えられているような人たちで、その周りには消防団員が立ち、護衛のようにつき従う。行列の最後には、一般信者たちが祈りの言葉を唱えたり歌を歌ったりしながら、しんがりを務めることになる。
「聖体の祝日の日」のガイスポルスハイムの街並 「羊飼い」の衣装の少女 「羊」と「ユリ」の衣装の少女たち
4つの仮祭壇のうちの一つ 「聖体の行列」でマリア像を担ぐ若い女性たち 四角い移動天蓋(中に司祭がいる)
聖ヨハネの日の火祭り(Johannisfir, les feux de la St-Jean)
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6月24日は、洗礼者聖ヨハネの日(La Saint-Jean)で、日には様々な慣習や行事が営まれていた。というのもこの日が夏至の日に近く、もともと夏至祭が行なわれていた日だからある。夏至の日は一日の長さが最も長くなり、太陽が最も力を増す日であると同時に、この日を境に力を失っていく日でもある。そのためキリスト教が広まるはるか以前から特別な日であると考えられ、様々な民間信仰が生まれたり、祭りが営まれるようになった。中でも有名なのが聖ヨハネの日の火祭り(Johannisfir, les feux de la St-Jean)で、今日でもアルザス各地で行なわれている。
うものである。日没後にもう一度太陽を出現させ、暗闇を押し戻し、弱りゆく太陽を力づけようとしていた、というのである。次に、火の力によって悪いものを追い払い清めると同時に、豊かさや繁栄を促進させようとした、という説がある。「火のついた円盤飛ばし」や「聖土曜日の焚火」などと同様に、ここでは、間近に迫った収穫を前に最後にもう一度火を燃やすことによって農作物の成長の妨げとなるような悪い霊から農作物を守り、さらにその成長を促進しようとしていた、というのである。この火の持つ力は農作物だけにとどまらず、自然の世界に生きる全てのものに対し有効であると考えられていた。そこから、この火の上を人間が跳んだり家畜が歩いたりすれば、火の力によって健康の妨げとなるような有害物が体の中から追い払われ、人間や家畜に健康がもたらされるものと信じられていたし、さらに若い男女が一緒に手をつないで跳ぶことにより、二人がやがて結ばれ子供が誕生し、それがそのまま共同体の繁栄につながることも期待されていたのである。このように聖ヨハネの日の火祭りは、自然の世界の豊かさや繁栄を促すだけではなく、共同体という人間社会の豊かさや繁栄をも促す目的で行なわれていたのである。
洗礼者聖ヨハネ(アルザスのガラス絵)
夏至の日に火祭を行うことにはいくつか理由が考えられる。その一つは、夏至の日を境に太陽が力を失っていく前に、太陽の持つ大地に恵みをもたらしてくれる力を増幅し支えようとした、とい
(1)チュール川の谷間の火祭り
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チュール川の谷間では、今日でも独特の伝統的な火祭りが行なわれている。それは、他の地域のように古くなったものやいらなくなったものを積み上げて燃やすのではなく、立派な櫓を組んで燃やすというもので、この櫓はアルザス語でファッケル(Fackel)と呼ばれている(ファッケルとはもともと松明という意味である)。櫓はたいていの場合、村を見下ろす丘の上にコンスクリ(徴兵適齢期の若者たち)たちによって作られる。チュール川の谷間にある最も大きな町サン・タマランでは、コンスクリたちが3〜4月頃から週末を利用してこの櫓作りを始める。許可を得て山から木を切り出してくると、丸太の形に整え、二本ずつ平行において交互に積み上げていくのである。こうして少しずつ先が細くなるように計算しながら、高さが20メートル前後になるくらいまで丸太を積み上げていく。櫓の中は空洞にしておかず、火をつけたときによく燃えるように、伐採した木の枝や葉などをぎっしり詰めておく。最後に、フランスの三色旗を取り付けたモミの木を櫓の天辺に取りつける。この大きな櫓以外にも、伝統的にさらに高さ2メートル程の小さな櫓が2〜3基、谷側に面して大きな櫓の前に作られる。これらは火祭りが始まるのを人々に知らせるために最初に火をつけられる目的で作られるものである。
この地域では火祭りを行なう時期は聖ヨハネの日の前後の土曜日と決まっている。祭りの夜、10時半を過ぎようやく完全に日が暮れたころ、コンスクリたちが手に手に松明を掲げて登場してくる。彼らはまず最初に三つの小さな櫓に火をつけていく。これが火祭りの始まりを告げる合図である。小さな櫓の炎の勢いが弱まり始め、興奮が最高潮に達したところで、暗闇の中をコンスクリのうち勇気のある者が1人、2人といきなり大きな櫓によじ登り始める。櫓の上のモミの木についている三色旗を外すためである。旗を外した者たちが無事に下まで降りてくると、いよいよ大きな櫓に火をつける瞬間がやってくる。やはり各人が手に松明を持ち、櫓の周りをぐるりと取り囲むようにして火をつけていく。炎が燃え上がると、そのあまりの凄まじい熱さに櫓の近くに陣取っていた見物客たちは耐え切れなくなり、次々と避難していく。そして炎が完全に櫓を飲み込んでしまうと、赤い炎の中に丸太だけが黒々と浮かび上がって見え、まるで櫓の骨格をレントゲン写真で見ているような印象を受ける。15分も燃え続けると、明らかに櫓の形が歪み始めてきたのが分かり、その歪みが少しずつ大きくなり始め、やがて人々の歓声とともに、とうとう櫓は真っ二つになって崩折れていくのである。
聖ヨハネの日の火祭り用の櫓(Thur チュールの谷間の村で)
櫓を作ったコンスクリたちと大きな櫓。大きな櫓の前に火のついた3つの櫓(St-Amarin サン・タマラン)
(2)スルツバック・レ・バンの火祭り
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アルザスで行われている火祭りの中でも、スルツバック・レ・バンのそれは、祭りの主体であるコンスクリたちが火の上を駆け抜けることで特に有名である。彼らはメリサ(Melissa)とも呼ばれているが、この呼称はフランス語の「民兵 (milice)」を語源としたもので、主体はあくまでもこのメリサたちだが、年下の若者たちも彼らの手伝いをしながら祭りのやり方を覚えていく。手伝いをする若者のうち、メリサの一つ年下はマイヤレッシェル(Maieloescher)と呼ばれ、さらにもう一つ年下はヒルフスマイヤレッシェル(Hirfsmaieloescher) と呼ばれている。マイヤレッシェルとは「マイヤに火をつける者」という意味で、ヒルフスマイヤレッシェルとは「マイヤに火をつける手伝い」という意味である。実際の祭りの時にメリサは3回、マイヤレッシェルは2回、ヒルフスマイヤレッシェルは1回、火の上を跳ぶことになっている。
彼らは祭りの行なわれる週の月曜日から準備を始める。スルツバック・レ・バンの火祭りでは、大きな薪の山と小さな薪の山を作るのだが、この日はまず小さな方の薪の山を作るのである。それが作られるのはレッベルク(Rebberg) の丘で、この小さな薪の山はマイヤ(Maie)と呼ばれている。その名が示す通りそれは、薪の山と言うよりほとんど一本のモミの木そのもので、小さな薪の山を作るというよりもモミの木を立てる、と言った方が適切である。モミの木が立てられると、その下に木の枝など燃えやすいものを置いて、マイヤは完成である。
次にメリサたちは大きな薪の山を作ることになる。マイヤに対し、この大きな薪の山はヨハネの火(Johannisfirle) と呼ばれていて、それが作られるのは祭りの前日の金曜日のことである。スルツバック・レ・バンでは、薪の山は伝統的にブドウの枯れ枝を束ねたもので作ることになっていて、基本的にこの伝統は今日でも守られている。そのように枯れ枝で作られるようになったのも、かつてこの村ではブドウ栽培が盛んだったからであるが(マイヤの立つ『レッベルク』という丘の名前じたい『ブドウの丘』という意味である)、今日ではブドウ栽培は行われておらず、他の村から枯れ枝の調達を行っている。ブドウ栽培が盛んであった昔は、剪定作業中に切り取られた余分な枝を束ねて各家庭で乾かし、たき木として貯えていた。そこで昔は、火祭りの当日に若者たちが各家庭をまわり、次のような歌を歌いながら、ブドウの枯れ枝の束を集めてまわっていた。
「ブドウの枝の束をおくれ/さもなきゃ家に穴を開けるぞ」
薪の山の作り方はいたって簡単で、ブドウの枯れ枝の束を紐を解かずにそのまま直径3メートル程の円形になるように並べ、後はその上に枝の束を積み重ねていく。薪の山の内側には、やはりブドウの枯れ枝の他、伐採したモミの木の枝、干し草、紙屑など燃えやすいものを詰めていく。こうして高さが5メートルほどになったところで、枯れ枝を積み重ねていくのをやめ、最後に飾り付けとしてモミの木の枝で全面を覆い付くし、さらに天辺には小さなモミの木を取りつけて大きな薪の山は完成する。祭りの準備は他にもある。中でも重要なのは、若者たちが火の上を駆け抜けていく際にかぶることになるバラの帽子作りである。これは女の子たちの仕事で、祭りの当日、器用な子で五時間、不器用な子で8時間かけ、場合によっては3百個以上のバラの花を使って、麦藁帽子を飾り付けるのである。村ではそのためにバラの花を栽培しているが、それでも足りない場合は、他人の家の庭から勝手に持ってきてしまうこともあるらしい。
辺りが少し薄暗くなる夜の九時頃になると、祭りのパレードが村役場前を出発する。行列は、消防団員を先頭に楽隊、メリサたちと続く。楽隊の奏でる行進曲に合わせ、彼らは村の中を半周ほどすると、村から出てレッベルクの丘へと向かっていく。レッベルクの丘に着くと、メリサたちはまずマイヤの周りに集まる。まずマイヤに火をつけ、その日を松明に移すためである。マイヤに火をつけるのは伝統的にマイヤレッシェルなのだが、今では消防団の人が手伝いをする。かつては、マイヤのすぐそばに大きな薪の山が作られていて、松明に火をつけた若者たちはそれをグルグルまわしながらレッベルクの丘を1周して戻ってきていたのだが、今では大きな薪の山がかなり離れたところに作られているため、直接大きな薪の山のところまでかけていくようになった。大きな薪の山に火をつけるのは女の子たちの役割である。大きな薪の山に火がつき、燃え上がり、火の勢いが弱まったところで、消防団の人たちが少し薪の山を崩して道を作ってやる。この上をメリサたちが駆け抜けていくのである。若者たちは女の子たちから帽子をかぶせてもらい、次々に火の上を駆け抜けていく。こうして全員が飛ぶべき回数をこなすと、コンスクリの歌を歌ったりドイツ語の歌詞によるダンスを踊ったりしながら、若者たちは意気揚々と引き上げていくのである。
レッベルクの丘に立てられるマイヤ 大きな薪の山作り バラの帽子を作る女の子たち
大きな薪の山の前で記念撮影
マイヤの下で松明に火をつけるコンスクリたち
火の上を飛ぶための準備を手伝う女の子
火の上を飛び越えていくコンスクリ
三本のモミの木の松明祭(La cremation des trois sapins)
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アルザス・ワイン街道の南の基点であるターン(Thann)の町で行われる火祭りは、やや趣を異にしている。まず、聖ヨハネの日の火祭りではなく三本のモミの木の松明祭(La cremation des trois sapins) と呼ばれていて、その名の通り三本のモミの木(実際には大きな松明の上にモミの木を飾りつけたもの)を燃やしている。また、祭りは曜日に関係なく6月30日(町の守護聖人である聖テオバルドゥスの日)の夜に行われ、火祭りの場所も町中にあるゴシック教会のすぐ横の広場である。火祭りはもともと異教的で世俗的な祭りであり、それをキリスト教会はキリスト教化しようと努めてきたわけだが、ターンの火祭りもまた、独自にキリスト教化され、形式化されて都市の中で発展を遂げた形の1つと考えることが出来るだろう。
この日の夜、まずターンの町の守護聖人であるテオバルドゥスを祀った教会でミサが行われる。続いて教会から行列が出発する。行列を形成しているのはアルザスの民族衣装を着た子供や大人たち、松明を手にしたボーイスカウトの子供たち、信者らであるが、その中心となるのは消防団員たちによって担がれた聖テオバルドゥスの像である。この行列が町の旧市街を一回りすると、いよいよ教会の横の広場に立てられた三本のモミの木に火がともされる。それは、本物のモミの木ではなく木屑などの燃えやすい材料で作られた大きな松明で、全体をモミの木の枝で覆い、飾り付けたものである。また各松明の天辺にはモミの木が一本立っていて、さらにそこに赤、青、白の旗(それぞれ軍隊、町当局、教会を表わしている)がつけられている。三本の松明に火がつけられると炎は激しい勢いで燃え上がり、やがて火の手はすぐ脇にある教会に襲いかかりそうになるくらいまで激しさを増す。すると消防団員たちが放水を始め、火の勢いをコントロールして適度なものになるように調節する。やがて少しずつ火の勢いは弱まっていき、火祭りは終る。火祭りを見にきた人たちは、この時の木の燃え差しを家に持ち帰り家の中で大切に保管していたそうである。それが家を病気や悪天候、魔女の力から守ってくれると信じられていたからである。また熱に効くというので、炭化した木を水に浸して飲むことさえあったそうである。そのように火の力によって清められた燃え残りの木には不思議な力があると考えられていた。
祭りの当日、花で飾られた聖テオバルドゥスの像
教会前広場に立てられた三本のモミの木の松明
消防団員に運ばれていく聖テオバルドゥスの像
燃える三本のモミの木の松明