11月 (novembre)

夜の集い(les veillees)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔は、秋が終わり冬が始まりを告げる頃になると、村人たちの社会生活に変化が見られた。日が短くなり寒さが厳しくなることから、長い間、外で働くことが困難になり、夕方、隣人同士や知人同士で、ある家の大部屋(die Stub, la chambree)に集まって、一緒に仕事をしていたのである。これが夜の集い(les veillees)と呼ばれるもので、一般にアルザスでは、11月1日の万聖節から2月2日のロウソクの清めの日まで行われていた。

 

 

その際、男たちは、シュニッツェルバンク(木材加工用の作業台)に座って、道具を修理したり、新しく作ったりしていた。また、9月から10月にかけて収穫した胡桃を割り、その実を水車小屋で引いてもらって、くるみ油を作ったりしていた。それに対し女性たちは、麻糸を作ったり、糸をつむいだりしていた。こうして出来た糸は、村の織工のところに持ち込まれ、テーブルクロスや寝具用の布ケルシュ(Kelsch)になった。他にも彼女らは、編み物や刺繍などを行っていた。こうした作業は単純な反復作業であったことから、一人で行うより何人かで集まって行った方が楽しいものであったし、一緒に作業することで燃料が節約できるという経済的なメリットもあった。また、若者と老人が一緒に仕事をすることで、経験、技術、知識などの伝承を行うことも出来た。それは仕事に関することだけではなく、諺、俚諺、歌、言い回し、伝説、歴史、逸話などに及ぶもので、過去から言い伝えられてきたものがこの機会に次の世代に伝えられていたのである。

 

 

 

 

 

 

こうした夜の集いは、ふつう夕方の6時〜6時半に始まり、2時間ほど続いた。それから休息となり、女の子たちは通りに出て行き、それを待ちかまえていた男の子たちと出会うと、一緒に大部屋に集まり、歌ったり、踊ったり、ゲームをしたりして22時頃まで過ごしていた。このように夜の集いは、14歳以上の村の若い男女が出会い、行き来しあい、カップルとなる機会を提供するものでもあった(その間に生まれた新しいカップルが、夜の集いが終わりを告げるカーニヴァルのときの円盤飛ばしで、村の人たちに公認して貰っていたわけである)。夜の集いでは、一家の女主人が彼らのために、砂糖菓子や豚の背脂肉、ハム、胡桃、リンゴ、パン、シュナップス(蒸留酒)などを用意していた。楽しい夜の集いも、夜警が就寝時間を告げにやってくるとお開きとなり、女の子たちは男の子たちに送られて帰宅していた。

 

 

 

 この夜の集いは、地域や地方によって様々な名前で呼ばれていた。糸巻棒の部屋(die Kunkelstub, la chambree aux quenouilles)、待ち合わせの部屋(die Maistub, la soiree ou l’on se rencontre)、女の子たちの部屋(Die Maidestub, la chambree des filles)、胡桃割りの部屋(die Kernstub, la soiree pendant laquelle on casse des noix)などである。夜の集いの習慣は、十九世紀末まではまだアルザス各地に残っていたが、その後少しずつ消えてゆき、第一次世界大戦と同時になくなってしまった。

 

 

 

 

Les veillees

Les adultes et les jeunes travaillent ensemble sur le Schnizelbank pour fabriques des disques en bois

 

 

 

 

『夜の集いの始まり』(E.H.Cordier画)

大人と若者がシュニツェルバンクに座り、円盤飛ばし用の円盤を一緒に作る。これもまた、経験、技術、知識の伝承の機会である。

 

 

 

万聖節(Allerheiligen, la Toussaint)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11月1日は万聖節(Allerheiligen, la Toussaint)で、6世紀にローマ教皇ボニファチウス四世がローマの古いパンテオン神殿をあらゆる聖人に捧げたことを記念して定めた、全ての聖人のための日である。また、翌日の2日は、死者の記念日(Allerseelen, jour des trepasses)で、この日は1048年にクリュニー修道院の院長だったオディロンによって定められた。

 

 

 万聖節の日は祝日で、この日にお墓参りが行われている。普通は前日の30日にお墓の掃除を行い、花を飾っておく。献花用の花は菊である。万聖節の日は、午後から教会で行われる礼拝に参加した後で、家族ごとにお墓参りをするのが一般的だが、数十年前まではみんなで行列を作り、司祭と一緒に墓地に出かけていた。アメルシュヴィルでは、万聖節の日の午後の3時から教会で行われる晩課(夕方行われる礼拝)の後、4時頃から司祭を先頭に村人たちは行列を作って墓地へ行っていた。そこで司祭が墓石の一つ一つに聖水を振りかけていき、最後に歴代の司祭の墓石に聖水をかけていた。また、翌朝の死者の記念日にも朝から礼拝が行われ、その後、やはり司祭と村人たちは行列を作って墓地までお祈りに出かけていた。死者の記念日は祝日ではないので、ミサの手伝いをする子供たちは、その後で学校へ行っていたそうである。それに対し、マスボーの谷間の村オーベールブリュックでは、万聖節の日の午前中に礼拝が行われ、午後にも晩課があった。ミサの後では、やはり司祭と村人たちが行列を作って墓地に出かけていたが、死者の記念日には司祭は墓地へ行く行列に参加していなかったそうである。また、万聖節の日の夜には教会の鐘が鳴らされ続け、その間、各家庭ではお祈りの言葉を唱え続けていたということである。

 

 

 

 

 

 そのように、かつてカトリック派の村では、万聖節の夜8時頃に教会の合唱隊の子供たちが教会の鐘を鳴らしていた。この鐘は、哀れな魂のための鐘(das Armenseelenlauten, la sonnerie pour les pauvres ames)と呼ばれていて、この日の夜に村を通り過ぎていくと考えられていた哀れな魂のために鳴らされていたものである。この鐘が鳴っている間、各家庭では、哀れな魂のためにロザリオの祈りを唱えていた。哀れな魂は煉獄にいて苦しんでおり、彼らのためにお祈りをすることによって、それだけ早く彼らがそこから抜け出す手助けになると考えられていたのである。一方、鐘を鳴らした後で子供たちは、行列を作り寄付を募って一軒ずつ家を回って歩いていた。子供のうちの1人がランタンを持ち、別の1人が小さな鐘を持っていて、家の前まで来ると鐘を3回鳴らし、主の祈りを3回唱え、後は全員で次のような決まり文句を言っていた。

 

「窓から/私たちに何かください/かわいそうな魂が/家の上を飛んでいます/私たちは鐘を/鳴らしました/かわいそうな魂のために/だから、私たちのために少し/施しをしてください」 (ヴィッテンナイム)

「聖霊が/家の上を飛んでいく/かわいそうな魂のために/鐘を鳴らしたものたちに何かください」 (タゴルスァイム)

 このようにして子供たちが貰っていたものは、果物や胡桃などの自然の恵みであった。中には何もくれない家があったが、その場合は、家主がけちである証拠として、家のドアにチョークで十字のしるしを3つ付けるといったようなことも行われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日以降、若者たちは、ふざけてテンサイに穴を開けて骸骨のような形にし、中にロウソクを入れて不気味に仕立て上げ、墓地の壁の上や家の窓際の上、噴水の上などに置いておいた。そうやって、夜の集いから家に戻る女の子たちを怖がらせるためである。

 

 

 

聖マルティヌスの日(d'Martin, la St-Martin)

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11月11日は、フランスでは第一次大戦の休戦記念日(armistice)で祝日になっているが、それまでは聖マルティヌスの日(d Martin, la Saint-Martin)であった。聖マルティヌスはフランスでもっとも信仰されている聖人の1人で、4世紀にトゥールの町の司教を務めていた。聖マルティヌスに関する最も有名な逸話は、彼がローマの軍隊に入っていたときのもので、ある寒い冬の日に彼がフランスのアミアンに駐屯していたとき、ボロ着をまとって寒さをしのいでいる貧者のそばをたまたま馬に乗って通りかかる。かわいそうに思ったマルティヌスは、外套を脱いで剣で2つに引き裂き、半分を貧者に与える。すると、その日の夜に幻想の中でキリストが現われ、「お前が貧者のためにしたことは私のためにしたことと同じだ」と言われたことから、彼は生涯をキリスト教のために捧げることにしたのである。その後、退役したマルティヌスは、フランスで最初といわれる修道院を開くなどし、まもなくトゥールの司教に任命される。1人で信仰生活を送りたいと考えていた彼は、トゥールから迎えに来た使者の前から姿を隠してしまう、これも伝説によれば、鵞鳥の鳴き声で隠れ家を発見されてしまい、トゥールの町の司教として約30年この地にとどまることになったということである。

St Martin (peinture fixee sous verre)

        

 

 

聖マルティヌス(アルザスのガラス絵

 

 昔は聖マルティヌスの日が1年の区切りの日と考えられていて、すでにカール大帝の時代からこの日は、債務や利子の支払期限日とされていた。そこから「マルティヌスは厳しい男」という俚諺が生まれることになった。領主や教会に支払う地代もこの日までに納めることになっていて、現金だけでなく、麦、鶏、鵞鳥、ワインといった現物で支払われることもしばしばであった。一方で領主たちは、地代を払う農民たちのために食事を振舞っていた。十分の一税やその他の税を徴収した聖職者たちもまた、貧者や病院に入院している病人らに対し、栄養のある食事とたっぷりのアルザスワインを振舞っていた。こうした食事に欠かせなかったのが、よく肥えた鵞鳥のロースト肉で、これはマルティヌスの鵞鳥(Martinsgans, loie de la Saint-Martin)として有名である。聖マルティヌスの伝説と何らかの関連があるかも知れない。

 

 

 

 

聖マルティヌスの日には特別な祝典も開かれていて、たとえば聖マルティヌスを教区の守護聖人とするコルマール市では、祭の日の前日に、同業者組合が松明行列を行っていた。また、聖マルティヌスの市(Martinskilben, les foires de la Saint-Martin)も有名で、コルマール市では1305年から、ストラスブール市では1336年から立つようになり、数日間にわたって開催されていた。というのも一年のこの時期には現金の持ち合わせがあったことから、多くの人々が、冬に備えた買い物をする必要があったからである。債務や地代などの支払い期日であったにもかかわらず、一般に聖マルティヌスの日が陽気で賑やかな一日であったのは、この日が、農作物やブドウの収穫といった全ての農作業が終わる日と考えられていたためである。聖マルティヌスの日は、伝統的に、冬の活動へと移行する転換点にあたる日であり、冬の始まりを象徴する日であると考えられていた。そのように聖マルティヌスの日は仕事の区切りの日であったことから、いくつかの地方ではこの日に、地主と使用人との間で結ばれていた雇用契約が切れ、新しい契約が結ばれていた。こうした雇用契約の更新は、25日の聖女カタリナの日や12月26日の聖ステファノの日にも行われていた。

 

       

                            

 

 

 聖マルティヌスの日にはまた、子供たちによるランタン行列(la procession des lanternes de la Saint-Martin)が行なわれている。やはり伝説によると、ある日、ダンケルクの近くの礼拝堂で聖マルティヌスがお祈りをしていたとき、近くの木につないであったロバがいなくなってしまった。そこで、村人や猟師たちが松明やランタンを持ってロバを探しに行ったのだが見つからず、最後に子供たちによって発見された。これを記念してライン川流域では、聖マルティヌスの日の夕方に、子供たちによるランタン行列が行われるようになったということである。アルザスも例外ではなく、その日の夕方、ランタン行列が行われていたが、そのときに使われていたランタンは、万聖節以降に若者たちが女の子たちを驚かすために用意していた、テンサイやカボチャの中をくり貫いて作ったものと同じものであった。このことから、ランタン行列の慣習と万聖節以降に行われていた慣習との関連性を指摘することが出来そうである。

 

 

 今日でも、アルザスのいくつかの村ではこのランタン行列が復活したり、新しく始められたりしている。聖マルティヌスを教区の守護聖人とするアメルシュヴィルでは、1990年代になってからこの慣習が取り入れられ、現在でも続けられている。聖マルティヌスの日は今日では第一次世界大戦の休戦記念日で祝日のため、行列が行われるのはその前後の平日の夕方である。参加しているのは村の幼稚園児や小学校の低学年児で、事前に学校でランタン作りが行われ、当日の夕方五時過ぎに自作のランタンを持って、学校の前に集まってくる。暗く寒い中、保護者や学校の先生がランタンのロウソクに火を灯していく。そのようにして出発の準備をしているところへ、剣と盾を持ち、マントに身を包んでローマ兵士の格好をしたマルティヌスに扮した男の人がやってくる。全員の準備が整うと、マルティヌス役の人物を取り囲んで、行列は出発する。村の中を歩いていく途中、行列は辻毎に立ち止まり、子供たちは学校で習った「サン・マルタン(聖マルティヌス)」の歌を歌う。こうして行列が役場前の広場までやってくると, そこには、半そでの薄着を着て両腕をかかえ震えている貧者に扮した人が待っている。マルティヌス役の人物は、みんなが見守る中、貧者に近寄り着ていたマントを着せてやる。そこで拍手が沸き起こり、子供たちが再びサン・マルタンの歌を歌って、その後みんなで教会のミサに行くのである。

 

 

 

 

 

 

 

Des enfants viennet avec leur lanterne au soir de la fete

Ils preparent la procession des lanternes de la St-Martin

 

 

 

 

各人のランタンを持って集まってきた子供たち

ランタンの中のロウソクに火をつけてもらう

Le depart de la procession avec St-Martin en costume de soldat romain a la tete

St-Martin offre son manteau au pauvre

 

 

 

兵士姿の聖マルティヌスを先頭に行列が出発する

貧者にマントを与える聖マルティヌス(役場前広場)

 

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