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7月〜10月 (de juillet en octobre)
穀物の収穫と幸福の束 (Gleckshampfele, gerbe du bonheur)
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聖ヨハネの日の火祭りが終わり7月に入ると、すぐに収穫の時期がやってくる。農民たちは、7月から8月にかけて穀類や農作物の収穫に追われ、ブドウ栽培者は9月から10月にかけて葡萄の収穫に追われることになるのである。1年の中で一番に大切で大変な時期であるため、収穫期間中には、今まで見てきた祭のような行事は行われない。収穫後には、収穫祭的な性質を持つ「守護聖人祭」が盛大に行われていたが、その後には冬を迎えるための準備が待ってる。アルザスはもともと農業に適した豊かな土地のたくさんある地方で、都市のすぐそばやいくつかのヴォージュの谷間でしか工業の発展を見なかった。土地が肥沃な地域では、主に小麦が栽培されていたが、大麦やカラス麦の栽培も行われていた。それほど肥沃でない土地では、ライ麦やキビが重要な農作物であり、ジャガイモはいたるところで栽培されていた。他にも、油をとるための西洋アブラナやクルミ、砂糖をとるための砂糖ダイコン、家畜のえさとなる家畜ビートが栽培されていた。工業製品の原料となった麻や亜麻なども栽培されていたが、19世紀末には麻の栽培は見られなくなった。それに対し、主に低地アルザスの肥沃な土地で行われていたタバコの葉やビールの製造に用いられるホップの栽培は拡大し、今日でも健在である。
一般にアルザス北部では、穀物の収穫は7月15日に始まる。かつて、農作業が機械化されるまでは、少なくとも刈り入れに1ヶ月を要していた。ところで、収穫の始まりと最後には、ちょっとした儀式のようなものがあった。もしその場に子供がいれば、最初に鎌入れをするのは子供と決まっていたのである。子供は、純真な心を持ち、人生の可能性を秘めた特別な立場にあると考えられていたことから、最初の3束を刈り取る資格を与えられていたのである。似たような儀式は収穫の最終日にも見られた。その日、まず農民たちは、最後に小麦を刈り取る場所を畑の端に選び、その場にある小麦の茎を7本か9本、または10本あつめると3つに分け、それぞれを紐で束ねてから、さらに青いリボンで結んで一まとめにしていた。この小麦の束は、高地ライン県では幸福の束(Gleckshampfele, gerbe du bonheur)と呼ばれている。昔の人たちは、何か霊的な力を持つ精が穀物畑にいて、それが穀類の成長を促し、出来る限りの豊作をもたらしてくれると信じていた。これは、小麦の霊(korndamon, demon du ble)とか小麦の母(Kornmutter, mere du ble)などと呼ばれていて、収穫が始まると捕まらないように畑の中を逃げ回るのだが、収穫が進むにつれ逃げ場を失っていく。そこで農民たちは、収穫の最終日に幸福の束を用意することによって、そこにこの小麦の霊を追い込もうとしていたのである。こうした準備が終わると農民たちは最後の収穫に取り掛かり、最後に畑に幸福の束だけが残されると、全員が束の周りに集まる。この束を刈り取るのはやはり子供で、たいていの場合、10〜12歳の女の子であった。というのも、女の子は純潔で、純真な心を持ち、未来の豊かさを約束された存在であると考えられていたからである。その場に居合わせた大人たちが、まず「主の祈り」と「アヴェマリアの祈り」の言葉をそれぞれ9回、唱える。その後、子供が3回に分けて幸福の束を刈り取り、その間、大人たちはみな十字を切って、「父と子と聖霊の名において」という祈りの言葉を唱える。幸福の束を刈り取った子供は、幸福の子供(Gleckskind, l'enfant du bonheur)と呼ばれていた。また幸福の束の中に、あらかじめ小銭や砂糖菓子を入れておくことがあった。それらは、最後の仕事を成し遂げた子供へのご褒美で、小銭はテントウムシが運んできたことになっていたそうである。
全ての収穫が終わると農民たちは、収穫されたばかりの小麦の束を積んだ「最後の荷車」のよく目立つ場所に幸福の束を飾り、行列を作って村へと戻っていった。地域によってはこの荷車に、モミやカバあるいはブナの木の枝を飾りつけることもあった。幸福の束じたいは花で飾り立てられ、時には青いリボンをかけられ木の棒(マイヤ)に取り付けられて、8月15日の聖母マリアの昇天祭の日に司祭の元へ運ばれていき、聖別されていた。聖別された束は、家の居間の隅にある神棚(Herrgottswinkel, le coin du bon Dieu)にある十字架像の後ろに置かれるのが普通だった。また、この幸福の束から取れる小麦の実は、翌年の種に混ぜられていた。それによって成長を促進し、豊かな実りをもたらす力を増幅させることが出来ると信じられていたからである。
幸福の束の収穫風景
この慣習は、低地ライン県では最後の束(die letscht Garb, la derniere gerbe)と呼ばれていて、それは他の小麦の束よりも大きな束でなければならなかった。農民たちは、最後の束を鋤の上に載せると村中を練り歩いていた。その際、リボンと花で飾られた収穫の木(Erntemaie, mai des moissons)を伴うこともあった。収穫のしめくくりは大宴会で、一般に収穫後の日曜日に、刈り入れを手伝った全ての人々を招待して行われていた。人々は存分に飲み食いをし、最後に雇い主の農民から賃金やお土産を受け取った。その際、雇い主の農民は翌年も収穫の手伝いをしてもらえるかどうかを確認していた。低地ライン県では、この催しは収穫のパン(Arnbrote)とか、食事にガチョウが振舞われたことから収穫のガチョウ(Arnegans)と呼ばれていた。また、アルザス南部のスンゴウ地方では、翌年までもう鎌などの農耕具を必要としなくなることから、鎌(Sichelte)とか、鎌よ、失せろ(Sichelhenkete)などと呼ばれていた。幸福の束の慣習は、農業が機械化された1960年代以降、見られなくなってしまったが、今日でも村祭の時などに再現されている。(ブドウの収穫については、ブドウとワイン(raisins et vin)へ)
聖母マリアの昇天祭 (Maria Himmelfahrt, l'Assomption)
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8月15日は、聖母マリアの昇天祭(Maria Himmelfahrt, l'Assomption)の日で、昔はこの日までにおもな農作業を終えることになっていた。また、この日にはアルザスの各地で野外ミサが行われ、農作物の聖別が行われていた。この農作物の聖別は、もともとこの日に行われていた九つの薬草(S'Ninterskrittel, neuf simple)の束の聖別に由来するものと考えられていてこの薬草の聖別が聖母マリアの昇天祭の日に行われるようになったのは16世紀のことである。それ以前は8月1日(聖ペテロの鎖の祝日)に行われていたのだが、その背景にはそもそも8月1日がケルト人たちの収穫祭の日であったことが挙げられる。
聖母マリアの昇天祭の日の聖別
聖母マリアの昇天祭の日に聖別されていた薬草で最も一般的だったものは、オトギリソウ、ミント,クマツヅラ、ワレモコウ、カノコソウ、ツルニチニチソウなどで、他にもビロードモズイカ、ニガヨモギ、イヌハッカ、ヤグルマギク、キンミズヒキなどが聖別されていた。また、上記の植物以外にも、16世紀におもに使われていた植物として、タマネギ、ニンニク、ラディシュ、テンサイ、キャベツといった野菜をあげることが出来る。このような様々な植物を集めて束にしていたのはおもに女の子たちで、いかに美しい束を作って教会に持っていくかを競っていた。各家庭から教会に持ち込まれた植物の束は、祭壇の上に置かれ、この日のミサのときに司祭から聖別をされていた。この植物の束は、一般に北アルザスでは植物の束(Wurzwisch)と呼ばれていた。それに対し、高地ライン県では、いくつかの村を除いて、薬草の束の聖別は知られていなかった。聖別された薬草は、一年を通して家族に病気の者が出た場合に実際に使われていたが、そうした実際の薬用効果だけでなく、悪いものから家や住人を守ってくれる象徴的な働きがあるとも考えられていた。たとえばビッチュホッヘンでは、聖別された薬草の束にニンニクとたまねぎを飾り付けることで、いたずらな霊や魔女などの策略を防ぐことが出来ると考えられていた。また、家の中で完全に乾燥するまで大切に保管し、それを家畜小屋に吊るしておくと家畜を守ってくれるとか、激しい雷雨の時にはその一部を燃やすと良いとされ、屋根の下に置いておくと家を火事から守ってくれると信じられていた。寄生虫や雹から畑を守るために、茎を畑に植えておくこともあったという。この他にも、ウマゴヤシ、ソラマメ、その他飼葉となる植物をやはり聖別し、家畜に与えていたそうである。聖別された薬草以外にも、聖母マリアの昇天祭の日と9月8日の聖母マリアの生誕の祝日(Maria Geburt, la naissance de la Vierge)の間に摘まれた薬草には最大限の効き目があり、それが満月のときであればなおさら良いと信じられていた。
守護聖人祭 (Messti, Fete patronale)
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6月の終わりから遅くとも11月初めまでの間(たいていは農作物の収穫が終わり、ブドウの収穫が始まる前の8月終わりから9月終わりまでの間)に、収穫祭的な性格を持つ秋祭が行われていた。これが守護聖人祭(La Fete patronale)である。この祭のアルザス語による名称には2通りあり、県によって呼び名が分かれる。一般にストラスブールを中心とした低地ライン県ではメスティ(Messti)と呼び、それよりもさらに北部ではキルヴ(Kirwe)、高地ライン県ではキルブ(Kilbe)とかキルビ(Chilbi)と呼ぶ。前者は「Messtag(ミサの日)」を語源とし、後者は「Kirchweihe(教会の奉献)」を語源としたものである。いずれにしろ、村の守護聖人や教会が献堂された日を記念して行われるものなのだが、実際には農作物の収穫後の喜びを分かち合う場であり、農民たちが農作物を売買したり物々交換したりする場にもなっていた。
祭の準備は2〜3週間前から始まる。まず祭の興行権が競売にかけられ、最高入札者が権利を手に入れると、出店する屋台を取り仕切り、飲食品の販売を一手に引き受けていた。これに、コンスクリ(徴兵適齢期の若者)たち、村のスポーツあるいは文化協会の人たち、消防団員などが加わり、会場設営などの準備を行うことになる。まず初めに彼らは、祭の行われる広場の中心に、祭りの木(arbre de la fete)であるモミの木を立てる。これはメスティのマイヤ(Messtimaie)とかキルヴェの木(Kilweboim)と呼ばれていた。木は天辺のところまで枝を切り落としてあり、枝でできた冠が取り付けられていて、それが花と細長い布で飾られた。また、ハム、つながったソーセージ、ラディシュやネギの束、砂糖菓子といったものが、天辺の冠にぶら下げられることもあった。それらは祭の当日に、若者たちがこの木をよじ登って奪い取るためのもので、この競技を通して彼らは、体力、巧みさ、勇気を見せねばならなかったのである。簡単によじ登れないように、競技の始まる前にわざと木に石鹸を塗っておくこともあった。この祭の木は、実際の宝の木(le mat de cocagne)であるだけでなく、あらゆる自然の恵みを人間に与えてくれる、生命や豊かさを象徴するものでもあった。
メスティのマイヤの天辺部分
メスティマイヤによじ登る若者(C.Spindler画)
伝統的な守護聖人祭は、土曜から月曜までの3日間、行われていた。日曜日には行列を伴う豪華なミサが行われ、ミサが終わると様々な娯楽が始まった。祭の進行は地域によって様々であるが、ここでも祭の主体となるのはコンスクリたちである。まず、守護聖人祭の若者たち(Messtiburscht)とも呼ばれる若者たちを中心とした一団が、祭が滞りなく進行するための役割を担った守護聖人祭監視人(Messtihutter)とともに登場してくる。行列は、村を一周して市長の家の前まで行くと、その後ダンスなどの娯楽が催される祭の木の立てられた広場へとやって来る。そこで監視人が放つ音を合図に、祭の木の周りでダンスが始まる。最初にワルツを踊るのは市長夫妻と若者たちのカップルと決まっていて、昔は木の周りを3回、まわることになっていた。若者たちによる木登り競争が行われるのはその後である。
ここまでがいわば祭の前座で、監視人の放つ2発目の銃声を合図に、守護聖人祭が陽気に始まる。そこでは様々なダンスが行われるが、もともと舞踏には自然や人間の世界の豊かさを促すという神聖な役割が期待されていた。生命の木とも考えられる祭の木の周りで男女が踊ることによって、大地の持つ繁殖力を増幅させ、また人間の社会を繁栄させることが出来ると信じられていたのである。中でも、雄鶏のダンス(Hahnetanz, la danse du coq)と呼ばれる踊りは、とりわけ生命力を象徴するものと考えられていた。けれども伝統的なダンスは、十九世紀から少しずつポルカやマズルカ、ワルツにとってかわられ、さらには時々の流行歌も用いられるようになっていった。
雄鶏のダンス
祭の最終日にあたる月曜日の夕方になると、祭のしめくくりとして、カーニヴァルの時のように守護聖人祭の人形(la Kilbe)の火葬や埋葬が行われていました。守護聖人祭の持つ収穫祭的な性格を考慮したとき、人形が、終わったばかりの収穫そのものの象徴ではないかと考えることができる。収穫を象徴する人形を火葬し、埋葬することによって、収穫のときが終わったことを表しているのである。また別の観点からみたとき、人形を、収穫をもたらした自然の持つ豊かさや繁殖力の象徴であると考えることも可能である。そこから、それを火葬したり埋葬したりすることによって(別の言い方をすれば、実りをもたらす力を犠牲にすることによって)、それが持つ力を大地に拡散させ、翌年また豊作になるように願ったのではないかと考えられるのである。人形を埋めると同時に硬貨を埋めるということも行われることがあったが、この行為は、翌年その力がより良く復活できるように願って行われたものと解釈することが出来るだろう。