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12月 (decembre)
待降節(Adventszit, l'Avent)
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クリスマスに先立つ4回の日曜日を含む期間(具体的に言うと11月27日から12月3日の間の日曜日に始まり、12月21日から27日の間まで続く期間)のことを、待降節(Adventszit,l’Avent)という。待降節とは、文字通りイエス・キリストの誕生を待つ期間のことで、ラテン語の「ad ventus(来るもの)」を語源とし、カトリック派にとってもプロテスタント派にとっても待降節の始まりが教義上の1年の始まりとなっている。このイエス・キリストの降誕を待つ期間中には、カーニヴァル後の四旬節の場合と同じように、厳しい食事制限が設けられていた。この食事制限は、すでに聖マルティヌスの日から行われていて、クリスマスまで週に3回、断食をするか肉食を慎まねばならなかった。さらに、待降節の始まりからエピファニー(公現祭)の1週間後までの間は、結婚式を行うことも禁じられていたし、ハナウ・リヒテンベルク伯の18世紀の記録によると、楽師などの芸人たちは待降節の間に芸をしてはいけないことになっていた。アルザスでは、待降節中のこうした食事制限が第一次大戦後まで行われていた。待降節の期間はまた、日が短くなるのを利用して、死者がこの世に戻ってくると信じられていて、ストラスブールの大聖堂の有名な説教師ガイラー・ド・カイゼルスベールもその説教の中で、次のように述べている。「神が定めた時よりも前に死ぬ者たち、同様に旅に出かけ殺された者たちは、その死後も、神が定めた時が来るまで長い間さまよわねばならない・・・このようにしてさまよう者、とりわけクリスマス前の待降節の間にさまよう者たちは。というのもそれが、最も聖なる時だからである」 人々はまた、夜あまり遅くまで糸紡ぎをしない方が良いと考えていた。さもなければ、待降節の小柄な女(Fronfastenweibchen, la petite femme de l’Avent)が突然現われて、いつまでも糸紡ぎをしている女性に、糸巻き棒をどっさりおいて糸を紡がせようとすると言われていたからである。
待降節の期間中、ストラスブール、コルマール、ミュールーズなどの大都市では毎日、またいくつもの市町村で週末に、クリスマス市(marche de Noel)が開かれる。市には、クリスマスの飾りや衣料品、食料品、そしてちょっとした食べ物を売る屋台がずらりと並び、クリスマスツリー用の大小とりどりのモミの木を売る一角も設けられ、多くの観光客でにぎわっている。このクリスマス市に欠かせないのが、温かいワイン(vin chaud)、人の形をしたマナラパン(Mannla)、様々な形をしたパン・デピス(pain d’epice)、ブレドゥレ(Bredle)というビスケット、ベラベッカ(Berawecka)という乾燥果物や胡桃などの入ったパンである。クリスマス市にはまた、クリスマスリースも並ぶ。リースにはロウソクが4本立っていて、待降節中の日曜日ごとに1本ずつ火をともしながら、クリスマスが来るのを待つのである。けれども、クリスマスリースはもともとアルザスにはないものだった。それがアルザスで急速に広まったのは、2つの世界大戦の間のことで、一説によるとクリスマスリースの原型は19世紀の半ばにドイツで生まれ、プロテスタント派の人たちによってドイツ全土に広まり、第一次大戦中にアルザスにも伝わったという。この慣習はまず都市階級の人たちの間で広まり、第二次大戦後に全ての階層の人たちに普及するようになったそうである。
ストラスブールのクリスマス市(モミの木を売る一角) クリスマス市(コルマール、Colmar) クリスマス市(ミュールーズ、Mulhouse)
聖ニコラウスの形をした『パン・デピス』 クリスマスの小さなビスケット『ブレドレ』 乾燥果物やクルミなどの入ったパン『ベラヴェッカ』
聖ニコラウス(Sankt Niclois, St Nicolas)
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12月6日は、この日に死去したとされる聖ニコラウス(Sankt Niclois, Saint-Nicolas)の日である。聖ニコラウスは、270年に小アジアのリキア地方(現在のトルコ)の地中海に面した町パタラで生まれたといわれ、後にミラの町の司教となる。そこで様々な奇跡を行い、それが後に聖人の伝記を集めた『黄金伝説』にも取り入れられ、幅広く知られるようになった。聖ニコラウスは、商人、船乗り、囚人の守護聖人と考えられている。というのも、時化にあった船を助けたとか、1524年には最初の聖戦から帰還途中の聖王ルイがキプロス島の近海で時化にあったさい、王に付き添っていた王妃が「難を逃れることが出来たら銀製の船の形をした聖遺物箱を寄進する」と聖人に約束したところ難を逃れることができたとか、ロレーヌ公爵に従い、第6回十字軍に参加して捕虜となったレシクールという町の領主キュノンという人物を牢獄から救い出したとかいった奇跡話があるためである。
聖ニコラウス(アルザスのガラス絵)
こうした聖ニコラウスの伝説の中で最も有名なものが、3人の娘と3人の子供を助けた、という話である。聖ニコラウスがまだ若かったとき、隣に貴族ではあっても貧しい男が住んでいた。この男には三人の娘がいて、生活費を得るため娘たちの美貌を利用しようとしていた。その話を伝え聞いたニコラウスは、夜中に人目を忍んで娘たちの家を訪れ、窓辺のところに布に包んだ金塊を置いていった。これが持参金となり、長女は良家の子息と結婚することができた。ニコラウスはこのあと二回にわたり金貨の袋を置いていき、全ての娘が良家の子息と結婚できたという。このことから聖ニコラウスは、結婚適齢期の女性の守護聖人と考えられるようになり、特にフランス北部や東部では、若い女性だけでなく若い男女の守護聖人とも考えられている。また、別の時には、聖ニコラウスは殺された3人の子供(神学生とも言われている)を助けた、という話がある。あるとき三人の子供が落穂ひろいに行き、暗くなるまで熱中してしまったため、たまたま近くに住んでいた肉屋(宿屋とも言われている)に一夜の宿を求めることにした。肉屋は喜んで子供たちを迎えるが、彼らが家の中に入るやいなや、肉切り包丁で彼らを殺しバラバラにしてしまう。そして、塩漬け肉を作るための樽に漬け込んでしまうのである。それから7年がたち、聖ニコラウスがたまたま肉屋の家の近くを通りかかる。聖人は肉屋に塩漬け肉を求め、肉屋は悪事が露見したことを悟り逃げ出そうとする。聖人は肉屋を呼び止め、悔い改めれば罪は許されると告げると、塩漬け肉用の樽の前に行き、指を三本立てながら、「そこで眠っている子供たちよ、私は偉大な聖ニコラウスだ」と言った。すると三人の子供はそれぞれ「あー、よく寝た」「僕もだよ」「僕は天国にいるのかと思っていたよ」 と言いながら立ち上がったということである。このことから聖ニコラウスは、子供たちの守護聖人とみなされるようになったのである。
小アジアに生まれその地に葬られていたことから、聖ニコラウスはおもにギリシャ正教会で信仰されていた。それが西ヨーロッパの人々の間で幅広く受け入れられるようになった背景には、聖人の遺骨が、11世紀にアドリア海に面したイタリアの商業都市バリに移されたことと関係がある。この町に聖人の遺骨が移されることになったきっかけは、聖人の墓がイスラム教徒たちによって荒らされるのをバリの商人たちが恐れたためであると言われている。こうして聖人の遺骨が西ヨーロッパにもたらされたことから、聖人の遺骨を見ようと多くの人がバリへ巡礼に出かけていった。これもやはり伝説によると、ロレーヌ地方の町ヴァランジェヴィルのオーベールという騎士がバリを訪れ、聖人の遺骨の一部(指骨)を一緒に盗み出したという。そしてそれを故郷に持ち返り、ポール(Port)の町に教会を建て、そこに安置した。これが現在のサン・ニコラ・ドゥ・ポール(ポールの聖ニコラウスという意味)で、それにより聖人に対
3人の娘と父親(左)、聖ニコラウス(中央)、3人の子供(右)の彫刻(コルマールのサン・マルタン聖堂南側の門扉のタンパンの像)
する信仰が、ロレーヌ地方から北フランスを経てフランドル地方へ、またアルザスなど東フランスへと広まっていくことになった。実際、アルザスでは12世紀以降から聖人に対する信仰が広まり始め、30ほどの教会が聖人に捧げられることになった。現在、聖ニコラウスは、サン・ニコラ・ドゥ・ポールの町があるロレーヌ地方全体の守護聖人でもある。
聖ニコラウスが子供たちの守護聖人となったことから、聖人の日には子供に関係する様々な慣習が生まれることになった。そうした慣習の中で最も有名なものは、聖人が良い子に贈物をし、悪い子にお仕置きをするというものである。これは今日でも行われているもので、この慣習が今日のサンタクロースの原型となっていることは言うまでもない。もともとこの慣習は、聖ニコラウスが聖人の日の前日(5日)の夜、子供たちが寝ている間に煙突から入ってきて、あらかじめ子供たちが暖炉の近くに用意しておいた靴の中に贈物を置いていくというものであった。16世紀のストラスブールの年代記作者ゼーバルト・ビューラーは次のように記している。「1570年に、ストラスブール市の指導者たちは、聖ニコラウスの日の前夜あるいは当日、子供たちのための聖ニコラウス市を行った場合は30シリングの罰金とするとして禁じた。それは前年まで行われていたものであり、そのときに人々はこの市でおもちゃを買い、夜の間に子供たちの靴の中に入れておき、朝、これらの贈物を彼らにしたのは聖ニコラウスであると子供たちは信じていたのである・・・」ところが、あるときから聖ニコラウスに扮した人物が現われ、直接子供たちに贈物を渡すようになった。そのさい聖ニコラウスに扮した人物は、頭にミトラと呼ばれる三角形の帽子をかぶり、手に司教杖を持った司教姿で現われるのが普通であった。また、顔には白いひげをつけて誰が扮装しているのか分からないようにし、背中には、砂糖菓子やおもちゃの入った大きな袋を背負っていた。時には司教杖の代わりに、悪い子にお仕置きをするための噛みつく枝(e bissigi Ruet, une verge mordante)と呼ばれる枝を持っていることもあった。一方、子供たちは、聖人を待つ間、お祈りの棒(Betholzle, des bois a prieres)を用意していた。これは、聖人がやってくる前に子供たちが行った「主の祈り」と「ロザリオの祈り」の回数を印した棒で、1回お祈りをするごとに小さな刻み目を入れ、それが10個たまると十字の印をつけていき、数を数えやすくしておくのである。彼らは熱心にお祈りをした証拠として、やってきた聖人にこの棒を見せていたのだが、中にはインチキをして実際の数より多くの十字の印をつける子供もいた。その場合は夜の間に両親が刻み目を黒く塗っておき、誤魔化しに気付いて刻み目を消してしまったのは聖ニコラウスだと言っていたそうである。また、聖ニコラウスが一人でやってくることはまれで、荷物を運ぶロバと、全身黒尽くめの服を身にまとい、手に木の枝の束の鞭を持った恐ろしい従者を伴っているのが普通であった。これが有名なハンス・トラップで、この人物については後で詳しく触れることになる。この手下を伴って家の中に入ると、聖ニコラウスは、子供たちが良い子だったかどうか両親に尋ねる。そして良い子には、、リンゴ、洋ナシ、胡桃、ヘーゼルナッツといった秋の収穫物や、パン・デピス(ライ麦・蜂蜜などで作るアニス入りケーキ)などの贈物を渡す。時には人形などのおもちゃを渡したりもする。一方、悪い子は鞭で脅されていた。この役を務めていたのがハンス・トラップである。時として聖ニコラウスは、悪い子の両親に、教育目的のために木の枝を鞭として置いて行くようなこともあった。
昔は聖ニコラウスが家から家を回って歩いていたが、今日では聖人が家々を回って歩くということはほとんど行われていない。恐いお供を連れず、幼稚園や小学校などの公共の場にやって来て、子供たちにボンボンなどの甘い砂糖菓子を置いていくか、さもなければクリスマス市で観光客相手に登場する程度である。けれども、マスヴォーの谷間の村の中には、今でも聖人が一軒一軒家をたずねてまわっているところがある。そのうちの一つ、オーベールブリュックの村では、事前に幼稚園にリスト表を張り出し、聖ニコラウスに来てほしい人には名前を書き込んでもらい、このリストをもとに聖ニコラウスの訪問が行われている。この訪問は、以前は伝統に忠実に聖ニコラウスの日の前夜に行われていたが、今では一晩では回りきれないほど注文が多いため、三日ほどかかることもあるという。その場合でも、それが何曜日であれ伝統に忠実に、聖ニコラウスの日の前夜を含んで行われている。聖人に扮しているのはある村の一家で、5日の夜、聖人とハンス・トラップ役は、夕方の6時半ごろから、自前の衣装に着替え始める。聖ニコラウス役はミトラ帽をかぶり、白いかつらに白いあご髭をつけ、片方の手に司教杖を持ち、もう片方の手に小さな鈴を持つ。この鈴の音が、聖ニコラウスの訪問を家の中で待つ子供たちに告げるのである。一方、ハンス・トラップ役は、毛糸の帽子をかぶり、顔を靴墨で塗り、黒い服を身にまとい、手には木の枝の束を持ち、背中にかごを背負う。かごの中には、寄付箱が入っていて、訪問した家の人が謝礼を入れられるようになっている。準備が終わると聖ニコラウスとハンス・トラップは、澄んだ鈴音を響かせながら夜道を歩いて家々を訪問していく。そして家の中に招き入れられると、子供たちに、良い子にしていたかどうか順番にたずねていく。場合によっては家人が家の外で聖ニコラウスたちを待っていて、直してほしい子供たちの癖や行った悪戯などについて事前に知らせておく。こうして聖人がその話を子供たちにすると、子供たちはびっくりして聖人の言うことを聞くというわけである。今日ではもうお祈りの棒の慣習は見られないが、代わりに聖ニコラウスは、学校で学んだ詩を子供たちに復唱させたり、有名な聖ニコラウスの歌を歌うように求めたりする。それがうまくいくと子供たちを褒め、贈物をする。贈物の中身は昔のように果物やナッツ類などの自然の恵みではなく、子供たちが普段からほしがっていたおもちゃや文房具などで、これらはあらかじめ家人が用意しておき、聖人たちがやってきたときに玄関で渡しておいたものである。最後に聖人は、「良い子でいないといつでもハンス・トラップがやってくるぞ。いつも天上から見ているからな」といった内容のことを言い、家を後にしていく。こうして聖ニコラウスの訪問が終わると、子供たちはすぐに贈物の中身を確認し、家族全員で夕食が始まる。この夜の食事には、普通、マナラ(Mannla)と呼ばれる人形の形をしたブリオッシュ生地のパン、果物、ココアやコーヒーなどの軽食が出される。同じブリオッシュ生地でもミュールーズでは、かつてカタツムリの形をしたシュナックラ(Schnackla)と呼ばれるパンが食べられていて、20世紀の初めまで聖ニコラウスの日には、このパンの販売で有名な大きな市が開かれていた。
聖ニコラウスとハンス・トラップの訪問(左)と子供たちに贈物をする聖ニコラウス(オーベールブリュック、Oberbruck) 聖ニコラウスの訪問の後に食べるマナラパン
夜中に人知れず来る場合でも、実際に姿を見せる場合でも、聖ニコラウスが良い子に贈物をし、悪い子を懲らしめることに変わりはない。そして、聖ニコラウスがこのような役目を果たすようになったのも、子供たちの守護聖人と考えられるようになったからであるが、この伝説自体は12世紀以降に西ヨーロッパで生まれたものであると考えられている。ここで聖ニコラウスがが贈物をするという行為について考えてみると、聖人は夜の間に煙突から入ってきて、暖炉のそばに置かれた靴の中に贈物をしていくことになっているのだが、どうしてわざわざ煙突から入ってきて、しかも靴の中に贈物を入れるのであろうか。もし、それが聖人の仕業であると説明されなければ、私たちは、夜、人知れず煙突から忍び込む相手に対し、むしろ恐怖心を抱くはずである。実際、煙突は、家の中と外を直接結び付ける装置でもあり、その外の世界では、冬になり夜が長くなることを利用してこの世に戻ってきた祖霊や死者の魂が暗闇の中をさまよっていたり、魔女などの悪い霊が飛び交っていたりしていると考えられていた。夜の集いの後で、家に戻る女の子たちを怖がらせる目的で若者たちが用意していた骸骨を思わせるランタンなどは、あの世から蘇ってきた死者たちを目に見える形で表したものでもあった。こうした死者たちは、ただ単に恐ろしいだけでなく、敬わねばならない存在でもあった。というのも昔は、地中にいる死者たちが、作物の成長に影響を与えるものと信じられていて、彼らとうまく付き合えば豊作をもたらし、逆に怒らせるようなことがあれば実りをもたらしてくれないと考えられていたからである。そこで見ておきたいのが、聖ニコラウスが贈物にしていたものである。後の時代になると人形やおもちゃなどになるが、それらはもともと自然の恵みであり、秋の収穫物であった。つまり、地中にいる死者たちがもたらしてくれたものだったのである。とりわけナッツ類は、単なる自然の恵みであるだけでなく、復活祭のときの卵がそうであったように、新たな誕生の象徴とも考えられていた。また、乾燥果物やパン・デピスなどは保存食であり、それらが食料の乏しくなる冬の最中にあって贈られるということは、象徴的な面だけでなく物質的な面においても、豊かな恵みが分配されていたと考えることが出来る。
少し話がそれるが、ここで、かつてアルザスで行われていた騒々しい夜(Die Klopf un Popelnacht,les nuits bruyantes)の慣習について触れておく必要がある。それは、待降節の最後の3週間の木曜の夜に行われていたもので、その日、仮面をつけた若者たちが女の子たちや時には子供たちを伴い、村の家から家をまわって、激しくよろい戸をたたきながら住人たちを恐がらせていたのである。ゲブヴィレールの町では、1801年に、この慣習が悪乗りを助長させ秩序を乱すものとして「待降節の木曜日の夜に、静けさを乱してポッペルン(たたくこと)をする者は、男女を問わず拘束し、これらの夜には警備を倍にしてしっかり見まわりを行うべきこと」といった内容の禁止令が出されているほどである。ここでとても興味深いのは、このように大騒ぎをし、よろい戸をたたいて住民を恐がらせた後で若者たちは、小麦の種やとうもろこしの粒を窓に向かってぶつけていたことであり、しかも彼らはその後で住民から、リンゴや胡桃、お菓子などを貰っていたことである。一般にこの慣習の背景にあると考えられているのが、大騒ぎをすることによって村から悪い霊を追い払い、窓に向かって種をぶつけることによって、豊かさや多産性をもたらそうとする儀式としての意味である。ここで若者たちは、冬の夜に飛び交っていると考えられていた魔女などの悪い霊を村から遠ざけると同時に、あの世から蘇ってきた目に見えない死者たちの役割を実際に演じ、目に見えるような形で村の人たちに豊かさをもたらしていたと考えられるのである。その報酬として彼らは村人たちから贈物を貰っていたのだが、その贈物には、若者たちを通して、豊かさをもたらしてくれた死者たちに供物を捧げるという意味合いもあったかもしれない。ここで話を聖ニコラウスの贈物の慣習に話を戻すと、聖人が子供たちに贈っていたものもまた、まさに同じ時期に、村人と死者(に扮していた若者たち)との間で交換されていた自然の恵みと同じものである。そして聖人は、これらの贈物を靴の中に入れていたわけだが、靴は昔から女性の象徴、すなわち多産の象徴と考えられており、この靴の中に聖ニコラウスは、やがて訪れる誕生の象徴であると考えられていたナッツ類などの自然の恵みを入れていたのである。
次に、「噛みつく枝」と呼ばれる枝や、枝を集めて束にしたもので悪い子にお仕置きをするという行為についてであるが、アルザスではこの枝を用いた枝でたたく(fitze,donner des verges)と呼ばれる慣習が、12月28日の幼児虐殺の日に行われていた。その日、聖女バルバラの日に切られ、家の中で花をつけた枝の束を持った少年たちが村の中を歩き、女の子に出会うたびに、枝で軽くたたくか触れるかしていたのである。枝で女の子たちをたたくことには、受胎能力を高める働きがあると考えられていた。このように見てくると、聖ニコラウスが良い子に贈物をし、悪い子にお仕置きをするという教育的な意味を持った慣習は、実は、同じ時期に行われていた豊穣や多産を願う儀礼的な意味を持った慣習と重なり合っていることが分かる。そこから、聖ニコラウスの日の慣習とは、もともと若者たちを中心に豊穣や多産を目的として昔から行われていた慣習をキリスト教化したものであり、聖人がわざわざ煙突から入り、靴の中に自然の恵みを入れていく不自然さも、古い慣習の名残ではないかと考えられるのである。聖ニコラウスが、3人の娘に金塊を贈ることで彼女らを救い若い女性たちの守護聖人となったこと、またとりわけアルザスやロレーヌ地方などの東フランスで結婚適齢期の若者全ての守護聖人として崇められるようになったのも、聖人の行為が豊穣や多産と結びついたものであったためではないかと考えられる。聖人が連れて歩く恐ろしい従者ハンス・トラップは、まさに、この慣習がキリスト教化される前にこの役目を担っていた祖霊や死者たちを顕現化させた存在であると言えるであろう。
クリストキンドル(Christkindle,l'enfant Jesus)
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ストラスブールのクリスマス市は、もともと「ニコラウス市」と呼ばれていた。というのも人々はそこで、聖ニコラウスの日に子供たちに渡す贈物や生活必需品を買い求めていたからである。ところがある年を境に、市は、クリストキンデル市(Christkindelmarik)と呼ばれることになる。きっかけは、1570年のある日曜日、ストラスブール大聖堂の説教壇に立ったプロテスタント派の説教師ヨハネス・フリンナー(Johannes Flinner)が、聖ニコラウスの日に子供たちに贈物をする慣習について激しく非難し始めたことであった。プロテスタント派では聖人に対する信仰を認めていないことから、フリンナーは、「贈物をするのは聖ニコラウスではなく幼児キリスト、すなわちクリストキンドル(クリストキンデルChristkindelとかクリストキンドラインChristkindleinとも綴る)である」と子供たちに言わねばならないと主張したのである。このときの説教が信者たちに与えた衝撃は相当だったようで、この問題は同年12月4日に開かれた会議で取り上げられ、その結果、その年より「聖ニコラウスの日を取り消し、商人たちに市を禁止する。ただし、クリスマスの三日前に市を開くことを許可する」ことが決定し、市の名称も「聖ニコラウス市」から「幼児キリスト市」に変更されることになった。これにより、子供たちに贈物をする日じたいも、聖ニコラウスの日からクリスマスの前日、あるいはクリスマスの当日へと少しずつ移行していったのである。
カトリック派の慣習を消し去ろうとしたプロテスタント派の目論みは少しずつ功を奏していったようで、17世紀にストラスブール大聖堂の説教師であったヨハン・コンラット・ダンハウアー(Johann Conrad Dannhauer)は、教理問答集の中で「クリストキンドラインがロバに乗ってやってくるよと両親が子供たちを説得するとき、それもまた禁じられている間違いではない。というのも彼らは、全てがそうなるようにしているからである」とか、「子供たちは、クリストキンドラインから贈物を受け取ることが出来るようにと寝に向かい、クリストキンドラインがきれいな人形などの品をあれこれ持ってきてくれるようにと祈るのである。それから彼らは静かに眠りにつき、ほんのわずかな心配もせず、朝、起き上がるやいなや、人形がそこにあり、贈物が目の前に置かれているのである。そして人々は、それを贈ってくれたのは、クリストキンドラインであると言うのだ」と述べている。
ストラスブールのクリスマス市は、今日でも「クリストキンドル市」と呼ばれている(写真は2005年のもの)
このように、プロテスタント派が導入した慣習は人々の間にすっかり定着していたようなのだが、後にダンハウアーは、突然この慣習のことを厳しく非難するようになった。というのも後の教理問答集の中で、「人々がクリストキンデルとともに行なっている慣習は空想の産物であり、偶像崇拝であり、このように教会のかたわらに悪魔の礼拝堂を建て、ほとんど偶像崇拝的な仕方で、扮装して価値のなくなったクリストキンデルに対し、定められたお祈りを捧げるようにといった考えを子供たちに与えるものであって、イエス・キリストの霊を宿した西洋杉の話の方がはるかにましと言えるかもしれない」と述べているからである。実際、1666年には、ストラスブールの教会会議で「クリストキンドラインなる人物のせいではびこる無秩序」について話し合われており、教会側は市の行政官にその対応を求めると同時に、クリストキンドルの慣習を以後は禁止する決定を下している。このことから、どうやら17世紀の半ば以降に、クリストキンドルに扮した人物が現れ、直接子供たちに贈物をし始めたらしいことが分かる。プロテスタント派の聖職者たちがクリストキンドルの慣習を導入したのも、カトリック派のそれを否定し、イエス・キリストの誕生を賞賛するために他ならなかったわけだが、当初の目的とは異なり生身のクリストキンドルが現れ、(おそらく仮面をつけた若者たちの行列に加わることで)無秩序状態を作り出しているのを目の当たりにしたとき、プロテスタント派の聖職者たちにはそれが、新たな異教の慣習の誕生のように思えてならなかっただろう。
ところでクリストキンドルは、「幼児イエス」であるはずなのに、実際には白い服を身にまとい、ヴェールで顔を覆い、頭に冠をつけた姿をして、女性が扮していた。常識的に考えれば、生まれたばかりの子供がイエスに扮して贈物をするということは不可能なわけだが、少なくとも小さな男の子ならこの役を演じることが出来たはずである。にもかかわらず、幼児イエスを現実化するさいに、どうして人々はこのような女性の姿をイメージしたのだろうか。それにはいくつかの説がある。一つは、冬至の時期に現れると考えられていたゲルマンの妖精をキリスト教化したものではないか、というものである。つぎに考えられているのが、豊かさや多産性の象徴であるゲルマンの女神たちをイメージしたのではないかという説で、こうした女神たちは、冬至を境に太陽の力が増していく時期に現れ、新しい生産のサイクルが始まることを告げると同時に、あの世の霊たちが人間界に豊かさをもたらしに来ていることを人々に思い起こさせているのだ、という。そして最後に指摘されているのが、現在も12月13日にスウェーデンで行われている聖女ルシア祭との関連である。聖女ルシア(ルシアとは光という意味)祭では、実際に若い女性が頭にロウソクのついた冠を被り、白い服を着て現れるからである。とはいえ、スウェーデンで行われている祭とアルザスのクリストキンドルとを、外見が似ているという理由でいきなり結びつけることは難しいことのように思わる。しかもクリストキンドルの場合、実際にロウソクのついた冠を被る場合というのはまれで、多くの場合は金色の冠を被るか白いヴェールで顔を覆うだけであったし、もし影響が認められるとしてもそれは、19世紀の半ば以降のことではないかと考えられている。いずれにしろクリストキンドルが、その名が示すように男の子ではなく、多産や豊かさをもたらす女性によって演じられていたということは、この慣習の持つ意味を考えてみたときに、はなはだ象徴的であったと言えるであろう。
聖ニコラウスに代わって子供たちに贈物を届けることになったクリストキンドルは、聖ニコラウスの場合と異なり、待降節の最初の日曜日からすでに現れ、クリスマスの前日、すなわち24日まで子供たちのところへ行き、贈物を配っていました。アルザスでよく聞かれるクリストキンドルの贈物の話に、クリスマスのときに焼かれるブレドレ(bredle)と呼ばれるビスケットにまつわるものがある。朝早いうちに母親がブレドレを焼いておき、目を覚ました子供たちが良い匂いをかぎつけて台所に来たとき、母親がオーブンの中を見せて、「ほら、昨日の夜、クリストキンドルがやってきてブレドレを置いていってくれたのよ」と言うのである。クリストキンドルは、プロテスタント派によって聖ニコラウスの代わりに考え出されたものであったが、その慣習が人々の生活の中に完全に溶け込んでしまうと、もはやそれがカトリック派のものなのかプロテスタント派のものなのかは、人々にとってあまり重要な意味をもたなくなってしまった。こうして、プロテスタント派が主流であったマンステールの谷間の村々ではクリストキンデルがやってきていたのだが、わずかにあったカトリックの村であるミットラックでも、隣村のメッツェラルやゾンデルナックの影響を受けて、聖ニコラウスではなくクリストキンドルが来ていたという。それに対し、カトリック派のマスヴォーの谷間の村オーベールブリュックでは、かつて、聖ニコラウスの日には聖ニコラウスが贈物を持ってきて、さらにクリスマスの前日には、人知れずクリストキンドルがやってきて、子供たちが昼寝をしている間に、クリスマスツリーの下に贈物を置いていってくれたそうである。
クリストキンドルとハンス・トラップの訪問 (T.シュレールによる有名な絵、1858年頃)
子供たちに果物を配るクリストキンドル (アグノー、Haguenauのクリスマス市)
ハンス・トラップ(Hans Trapp)
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ハンス・トラップ(Hans Trapp)は、聖ニコラウスやクリストキンドルのお供とみなされていて、贈物を運んだり、悪い子にお仕置きをするという役目を担っている。しかし、地方によっては、ハンス・トラップがロバを連れて一人でやってくる場合もあった。ハンス・トラップの姿は地域によって様々であるが、だいたい共通して言えることは、全身黒ずくめで、手に棍棒や木の枝の束を持ち、恐ろしい物音を立てるという点である。もう少し詳しく見ていくと、ストラスブールの西に位置するコヘルスベールでは、大きな帽子をかぶり、麻か亜麻で出来た長いひげを生やし、黒いマントを身に付け、背中か手に大きな袋を持っていた。この袋は、悪い子供を中に入れて連れ去るためのものである。さらに別の地域では、頭に角を生やしていたり、顔や手をススで真っ黒にしていたり、髪の毛が逆立っていたりした。また、恐ろしい物音を立てるのに、腰に鎖を巻いていたり、木靴か鋲のついた靴でのっしのっし歩いていた。グンステットでは、カウベルを持ち、手には枝か棒を持って村の中を歩き、家の前で踊りを踊ることもあったという。
かつてマンステールでは、ハンス・トラップが家の中に入ってくる前に、母親が次のように話していた。「泣いている子供たちをハンス・トラップがさがしにやってくる。毛皮のボンネットをかぶってお前たちのところに現れる。継ぎはぎのマントを着て、お前たちに変わることを教えてくれる。そう言ってあったけれど、冬にしか家の中にやってこない。そして悪い子を探し出し、黒い煙突に引きずり込む。棒を、噛みつく枝を持っていて、お前たちの首根っことズボンの上を本気でひっぱたく」すると、大きな物音を立てながらハンス・トラップがロバを外に置いて入ってきて、それを見た子供たちは、次のように言っていた。「お母さんの言うことを聞きます。お父さんの言うことも、二人の言うことを聞きます。どうか、痛い目にあわせないでください。もう子猫の尻尾や手足を引っ張ったりしません。もうたたいたり、噛んだり、石を投げつけたり、自分のズボンを燃やしたり、川で釣りをしたりしません。こうしたことをみんな約束しますから、ハンス・トラップさま」その後でハンス・トラップは良い子には砂糖菓子を与え、部屋の中にナッツ類をビスケット、リンゴや洋ナシをばら撒いていた。けれども今日では、聖ニコラウスが子供たちを諭し、贈物をするのが普通で、ハンス・トラップは子供たちを恐れさせることもせず、脇に退いて見ているか、聖人と一緒に現れないことさえある。
手に枝の束を持ったハンス・トラップ (オーベールブリュック、Oberbruck)
ところで、ハンス・トラップは、フランス語では鞭打ちおじさん(Pere Fouettard)という。これは、手にお仕置きをするための鞭を持っているからである。それでは、アルザス語のハンス・トラップの語源は何なのだろうか。アルザスで最も有名で一般に広く知れ渡っているのが、実在の歴史上の人物からついた名前であるという説である。その人物とは、15世紀末から16世紀にかけて、北アルザスのヴィッサンブール近くのベルヴァルトシュタイン城に住んでいた、ハンス・フォン・ドラット(Hans von Dratt)あるいはフォン・トロタ(von Trotha)で、彼はプファルツ選帝侯の元帥となり、ヴィッサンブールの町に対し、好戦的で厳しい政治を行った。そのため、1503年に彼が死ぬと、急速に子供たちを恐れさせる人物になったというのである。ハンス・フォン・ドラットとハンス・トラップとの関連を最初に著したと考えられているのがカール・ブーゼ(Karl Boese)という人で、1847年に出された「人々にハンス・トラップと名付けられたヨハン・フォン・ドラット」という題名の詩の中で、次のように書いている。「今日でもなお不安と恐れを持って、彼の名前は語られる。近くでも遠くでも、子供たちにとって恐ろしいイメージとして。そこでだ、子供たちよ、遅かれ早かれ言うことを聞くがいい。さもなければクリスマスの夜に、ハンス・フォン・ドラットがお前たちのところへやってくるぞ」この説は、アルザスのグリムとも言われるオーギュスト・シュトゥーバー(Auguste Stoeber)も1850年に取り上げていて、今日でも多くの人がこの説を信じている。
これに対し、19世紀末にエドゥアール・クラウゼ(Edouard Krause)が、非常に興味深い説を唱えた。クラウゼは、ハンス・トラップとハンス・フォン・ドラットとは名前が似ている以外にはおそらく何の関係もなく、ハンス・トラップの語源は、「ハンス」と「トラップ」という二つの語が結びついた結果ではないかと考えたのである。「ハンス」というのはアルザスではよくみられた名前で、さしずめ日本では「太郎」とでもいったらいいだろうか。また、「トラップ」とは、アルザス語で「物音を立てながら、のっしのっし歩く」という意味の動詞「tappe」あるいは「trappe」に由来するとし、ハンス・トラップとは、「のっしのっしガチャガチャ太郎」という意味ではないかと考えたのである。これはまさに、ハンス・トラップの行動そのものである。そのように考えたとき、さらに興味深い事実が浮かんでくる。それは、冬のこの時期に、アルザスだけでなくヨーロッパの各地でハンス・トラップと同じような名前を持った人物が現れ、同じように振舞っているということである。たとえばドイツでは、聖ニコラウスのあとについて子供たちを訪れるのは、クネヒト・ルプレヒト(Knecht Ruprecht)であるが、これは、「野生の仮面をつけた者」を意味する「Rauhpercht」から来ているのではないかと考えられる。また、ライン王領伯の領地(le Palatinat)では、「のっしのっし歩く者」という意味のスタンペス(Stampes)が現れるが、その語源はハンス・トラップのそれとよく似ていると言える。さらに、ライン川をはさんでコルマールの対岸に位置するカイザーシュトゥール(Kaiserstuhl)では、カウベルを持った男(Glockenschellemann)が現れ、ストラスブールの対岸に位置するオルテナウ地方では、藁皮の男(Struwpelt)が現れるのである。実はアルザスでも、ハンス・トラップは、地域によって様々な呼び名を持っていて、たとえば、「動物の皮を着ている者」という意味のリュベルツ(Rubelz)、「毛皮を着たニコラウス」という意味のペルツェニッケル(Pelzenickel)とも呼ばれていたし、北アルザスのアルザス・ボッシュと呼ばれる地方では「家の小人(Mullewitz)」と呼ばれていたりした。
このように見てくると、ハンス・トラップはアルザスだけに存在するのではなく、ヨーロッパに幅広く存在する普遍性を持った何者かであり、その暗い姿、人を恐れさせる行動などから、あの世から戻ってきた亡霊や祖先の仲間であると考えることが出来るだろう。そしてその役割は、大きな物音を立てることによって悪影響を及ぼす力から共同体を守ると同時に、自然の恵みをこの世の人たちに贈ることによって、豊かさや多産性をもたらしているのだと言えるのである。ハンス・トラップは、クリスマスの時期に仮装して歩き回っていた若者たちの唯一の代表として、聖ニコラウスやクリストキンドルの従僕となりながらも、古い儀式の名残を今日まで伝え続けていると言えるかも知れない。
アグノー(Haguenau)のクリスマス市に現れたハンス・トラップ。アグノーではリュベルツ(Rubelz)と呼ばれていた。
クリスマスツリー(Wihnachtsboim, Christboim / arbre de Noel, sapin de Noel)
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クリスマスツリー(Wihnachtsboim, Christboim / arbre de Noel, sapin de Noel)は、1521年にアルザスのセレスタ市で始まったと言われている。けれども実際は、文献に「クリスマスの木」のことが記録された最初がこの年であったということであって、それよりも前から人々は、森の中に入り、何らかの理由で木の枝や木そのものを切っていた。そうした記録の中で最も古いものは13世紀にブルシュの村で出された政令で、そこには次のように簡潔に記されている。「この森で、農民は主の生誕の3日前からだけ木を切ることが出来る。それ以外の期間は出来ない」次に、1369年のベルクハイムの村の記録によると、状況は次のようなものである。「各小作農はクリスマスの晩に木を切ることもしなければならない。その量は馬か牛2頭で引っ張ることの出来る荷車一台分で、荷車とともに木から木をまわり、足台の上に立ったまま切らねばならない。もし斧が彼の手から落ちたら、それを地面にそのままにしておかねばならない。もし拾うと、過ちを犯したことになる」さらに、1431年にアンドルスハイムで出された政令によると、やはり各小作農はクリスマスの晩に森で木を切り荷車で持ち帰ることを許可されていたが、それ以外にも修道院または代官の森で7ピエ(2,1メートル)の木を望めば貰うことができた。これらの記録から、クリスマスの晩に農民たちが森へ行き、木の枝あるいは木そのものを切って持ち帰る慣習があったことは確かである。このようにして農民たちが切っていた木の枝や木そのものが何の目的に使われていたのかはっきりとしていない。ただ、ストラスブール生まれの人文主義者セバスチャン・ブラント(Sebastian Brant,1458-1521)が、1494年に出版した著名な作品『阿呆船(Narrenschiff)』の中で「何も新しいものを持たず、新年を歌って祝おうとせず、家の中に緑のモミの枝を置かない者は、年の瀬まで生きられないと思っている」と記していたり、1509年に説教師ガイラー・ドゥ・カイゼルスベール(Geiler de Kaysersberg)が、クリスマスのときに「ある者たちは家の中にモミの木を置く」と書き残したりしていることから、切られた枝が、何らかの理由で農民たちの家の中に飾られていたのではないかと推測することができる。
クリスマスのために「木」を切っていたことを具体的に記した最初の記念碑的文献が現れるのは、最初にも触れた1521年のセレスタ市でのことで、この年の会計報告書には「森林監視員に2シリングの支払い。聖トマスの日に木(マイヤ)を監視するため」という記録が残されている。ここで注意しておきたいのは、「木」を表すのに「マイヤ(meyen)」という言葉が使われている点である。というのもアルザスでは、一年を通して様々な機会にマイヤが立てられていたわけだが、これによりクリスマスツリーもまたそのうちの一つと考えることが出来るからである。この最初の記述の後、セレスタ市では、繰り返しこの木に関する記述が残されている。1546年には町が二人の職人に対し、つるはしで道を作りクリスマス用のマイヤを切ることに対して3シリングを支払ったこと、1555年には市参事会員らがクリスマスの木を切ることを禁じたこと、その2年後の1557年には森林監視員に2シリングを払い、クリスマスの木(wyhenachtmayen)を監視させ、それらを切るのに2シリングを支払ったことなどである。この頃になるとアルザス各地でもクリスマスの木に関する記述が現れ始め、さらに1597年にはクリスマスツリーにどのような飾りがなされていたかが分かる文献が現れる。それはテュルッカイムの町の会計報告書で、クリスマスのお祝いのために購入したものとして、聖別される前の聖餅(オスチア)、リンゴ、色紙、紐といった品目があげられているのである。リンゴは楽園追放を想起させるものであり、アダムの象徴でもある。聖餅は贖罪やキリストの到来を象徴している。最後に色紙についてだが、紙製のバラ(人間に対する神の愛の象徴)を作るのに使われたのではないかと考えられている。
このようにクリスマスツリーの原型とでも言うべきものは16世紀末に現れたわけだが、それは、農民が室内に飾っていたと考えられる木の枝から徐々に変化したものであるというよりは、教会が行っていた聖史劇の影響を強く受け、まず町の参事会や同業者組合などの本部で立てられるようになったものであると考えられる。この聖史劇は、14世紀頃から中世キリスト教会が教会前広場で始めたもので、演目は『アダムとイヴの楽園追放』であった。というのも、12月24日はアダムとイヴの日だったからであり、その際に善悪を知る木の実として舞台の上に立てられていたのが、赤いリンゴを飾りにつけたモミの木だったのである。セレスタ市の公文書には、1600年のクリスマスの日の様子が、市の行政官の酌係バルタザール・ベックによって次のように記されている。「マイヤが立てられる。クリスマスの晩、森林監視官らが市内と市参事会本部に木を運んできて、クリスマスの晩に立てられるのである。その晩、使用人と使い走りらは、宿屋の主人が聖別される前の聖餅とリンゴで木を飾りつける手伝いをする。このために宿屋の主人が出費する額は税関所で払い戻される。コックが彼らにワイン一本、6シリング分のパン、ロウソクを渡す。上記の者たちは、松明とランタンを持ち、朝課が始まるときまでに名士たちの家を訪れる。そして朝課のおともをし、家まで送るのである」さらにベックは、クリスマス後のツリーのことについても触れ、「聖なる王たちの日、名士の子供と仲間たちがやってきてマイヤを揺することになるのである」と記している。ここで言う聖なる王の日とは公現祭(三王礼拝)の日のことで、このようにクリスマスツリーは、もともと12月24日の夕方に立てられ、クリスマスの聖なる期間(十二夜の期間)の終わる1月6日の公現祭の日まで置かれ、最後に子供たちが木を揺すって飾りを落とした後で、捨てられるか燃やされていたのである。
17世紀に入ると、アルザス各地でクリスマスツリーに関する具体的な記述が現れ始める。たとえば1605年にストラスブールで立てられたクリスマスツリーは、多色紙で作られたバラの花、聖別される前の聖餅、金糸、砂糖菓子で飾られていた。プロテスタント派の説教師コンラッド・ダンハウアーも、17世紀の中頃に『救世主イエス・キリストの系統樹について』という題名の説教集の中で、ツリーについて次のように述べている。「・・・神の言葉や聖なる修養といったものよりも、人々が古きクリスマスの時をともに過ごしている他のくだらないものの中に、クリスマスの木あるいはモミの木がある。それを家に立て、そこに人形と砂糖菓子を吊るし、それから揺すってそこから飾りを取り除くのである。この慣習がどこから来たのか私は知らないが、これは子供の遊びである」
この後、三十年戦争(1618-1648)の間は、クリスマスツリーに関する記述が残されていないが、戦争後になると再び現れ始め、18世紀になると、クリスマスは少しずつ子供たちの祭に姿を変えていった。それとともにクリスマスの祝い方も、市参事会や同業者組合の本部に皆が集まり一緒に祝う形から、内輪で家族や親類と祝う形へと変化していく。1785年には、クリスマスツリーにロウソクが飾ら
れていたことが分かっている。これは、オーベールキルシュの男爵夫人が『回想録』の中に書き記しているもので、「大切な日がやってくる。人々はそれぞれの家で、ロウソクとボンボンで覆ったモミの木を準備する・・・」とある。また1802年には、牧師であり詩人でもあったゴットフリート・ヤコブ・シャレールが、自身の著作中のクリスマスツリーに関する記述の注釈として、次のように書いている。「アルザスには、子供たちのために部屋の片隅にモミの木の枝を掛ける習慣がある。そこには、ありとあらゆる砂糖菓子、マスパン、金や銀のクルミが飾りつけられ、子供たちはそれを自分たちにモミの木と呼んでいる」このことは、クリスマスツリーが知られる以前に農民たちが家の中に飾っていたと思われる木の枝のことを想起させるものであるが、この木の枝のようにクリスマスツリーは、初めは天井から吊り下げられていたらしい。今日、アルザスで知られている最初のクリスマスツリーの絵は、ストラスブールの画家ベンジャミン・ジクスが詩人ヨハン・ペーター・ヘベルのために1806年に描いた挿絵だが、この絵の中のクリスマスツリーも天井から吊り下げられている。
ベンジャミン・ジクスが描いたアルザスで最も古いクリスマスツリーの絵(1806年)
クリスマスツリーがアルザス中に広まっていくのは19世紀に入ってからのことで、それには教会やプロテスタント派の信者たち、都市の中産階級の人たち、学校の影響が大きかったそうである。特に普仏戦争後にアルザスがドイツに割譲されてからは、ドイツの行政側もクリスマスツリーの普及を後押しした。というのもこの慣習がとてもゲルマン的に思えたからで、アルザスがドイツに併合されると学校も義務教育となり、1871年からはクリスマスツリーも全ての学校で必ず飾られるようになったほどである。これに対し、サンゲルレは、1876年に著した『ストラスブールの歴史』の中で、クリスマスツリーの慣習がゲルマンの古い習慣であるというドイツの行政府の考え方に強く反発し、次のように記している。「アルザスでは、どんなに貧しくても自分のクリスマスツリーを持たない家庭はない。アルザス人が移民するときには、家の守り神と一緒にその代々受け継がれてきた慣習を持っていく。そしてそれを、カリフォルニアの泥まみれの金鉱で、サハラ砂漠で、セバストポールの塹壕の中で見出してきたのである。それゆえこのように言うことができるのだ。『アルザス人家族あるところ、クリスマスツリーあり』と。それは、アルザス・ロレーヌ協会が私の提案でパリに持って行った心を打つみんなの喜びの一つなのである」このようにクリスマスツリーの伝播には、故郷の思い出としてその慣習とともに移民していったアルザス人たちが一役かっていた。
このようにしてクリスマスツリーを飾る慣習は、19世紀以降ヨーロッパ中に広がり、世界的な広がりを見せることになる。けれども、クリスマスツリーの伝統がアルザスに生まれ、そこから広まっていったと一般には紹介されているが、実はライン川を挟んだドイツ側の都市フライブルクにおいても、古くからクリスマスツリーが立てられていたことが分かっている。それはセレスタ市の記録よりもさらに古い1419年からのことで、パン屋の見習い職人たちが、聖霊病院の医師たちの会合室に大きなモミの木を立てているのである。また、パン屋の職人たちも、巨大なブレッツエルを持ち、音楽と組合の旗に合わせて市内を練り歩くと、ブレッツエルを貧者たちの代表に渡していた。それからその代表者が大きなモミの木を揺すり、貧者たちはそこから落ちてきた砂糖菓子や果物を拾い集めていたという。こうしてみてくると、クリスマスツリーの発祥の地は、アルザスというよりもう少し範囲を広げて、アルザスを含むライン川流域であると考えた方がよさそうである。
ストラスブールのクレベール広場に立つクリスマスツリー。今日では、待降節の始まる前後の時期から立てられ始めるのが一般的になった。
クリスマス(Wihnachte, Noel)
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クリスマスはイエス・キリストの誕生日のことである。けれども聖書には、イエスの誕生日がいつなのかは記されていない。そのため昔は春に設定されていたこともあったが、354年に西欧教会は12月25日をイエスの生誕日と定め、その日から新年が始まるとした。ところでクリスマスは、フランス語では「Noel」と言う。これは、ラテン語で「誕生日」を意味する「natalis diae」の縮約形が語源であると考えられている。それに対しアルザス語では、「Wihnachte」あるいは「Wiehnachte」と言う。これもまた、「聖なる」を意味する「Wih」と「夜」を意味する「nachte」の縮約形が語源であると考えられているが、「夜」という語が複数形であることから、それがクリスマスの夜だけでなく、クリスマスの時期の夜、さらに言えば、一般に12夜という名で知られる12月25日から1月6日までの期間の夜を指すと考えることも出来る。クリスマスは、イエスの誕生を祝う日であるだけでなく、新年の始まりの日、すなわち古い年から新しい年へ、世界が死から生へ生まれ変わる瞬間でもあったことから、この日の前後には、様々な儀式、慣習、民間信仰が見られた。それらは大きく分けて、キリスト教会に関係するもの、一年の終わりと新年の始まりとに関するもの、冬の時期と結びつくものに分けることが出来る。ここでそれらのうちのいくつかを概観していくことにしたい。
(1)キリスト生誕の模型 (Krepf, la creche) クリスマスの風物詩の一つに、キリスト生誕の模型がある。これは、イエス・キリストがベツレヘムの家畜小屋で生まれた場面を人形を用いて表したもので、この時期どこの教会に行ってもたいてい内陣の脇あたりに見ることが出来る。また、教会前などで行われるクリスマス市のときには、等身大の模型がお目見えしたり、場合によっては羊飼いの姿をした生身の人間やロバなどの本物の家畜が現れることもある。キリスト生誕の模型は、公共の場所だけでなく、もちろん一般の家庭でも飾られている。このキリスト生誕の模型がアルザスに現れたのはかなり古く、おそらく最初に表されたのは、オディール女子修道院の院長であったヘラルド・ランツベルクの『至福の園』(1170年頃)の中の挿絵であったと考えられている。それはもともと教会や修道院の中に飾られていたが、少しづつ一般の家庭にも広まっていった。ところが、アルザスに宗教改革が起こると、カトリック派の人たちはこの慣習を持ち続けたが、プロテスタント派の人たちの間ではこの慣習が消えてしまう。それが迷信だからというのが理由である。このことについて、17世紀にプロテスタント派の説教師コンラッド・ダンハウアーは、「盲目的な教皇第一主義においては、クリスマスを祝う際に多くの迷信がある。人々は苦労して熱心に、金と銀、シルク、真珠、宝石を用いて美しいキリスト生誕の模型を作り、教会に設置し、そこに幼子イエスを寝かせ、マリアとヨゼフを置き、牛とロバを脇に置いて、人々は野次馬のようにそれを眺め、賞賛する。彼らは外側にばかり関心がいっていて、中心の部分に重きを置かないのである」と述べている。こうして、キリスト生誕の模型を作るという慣習が本当に広まるのは、フランス革命とその後に続く混乱の後のことになるのである。キリスト生誕の模型が教会の中に置かれるようになったのと時を同じくして、イエスの生誕という重要な出来事を見せるクリスマスの聖史劇(Weihnachtspiele, jeux de Noel)も行われるようになった。この聖史劇は教訓的な役割を持ち、信者たちに生きたメッセージを伝えることを目的としたもので、アルザスでは15世紀から上演が確認されており、1462年にはルーファック、プファッフェンナイム、エギスハイムの住民らが、コルマールへ行きそこでクリスマスの聖史劇を演じたことが分かっている。この他にも、16世紀に幼児イエスの周りで絵の人形が踊る細工が準備されたという記録がサヴェルヌの町に残されているし、1690年にはテュルッカイムの司祭が台本を書き自ら演出して、20人の少年と22人の少女の演じる「小イエスの生誕劇」を新年に町の墓地で行うなど、様々な形でキリストの生誕の様子が表わされてきた。
実際に人や動物がキリスト生誕の様子を表すこともある(アグノー、Haguenauのクリスマス市)
教会の内陣奥に設置されたキリスト生誕の模型 (カイゼルスベール、Kaysersbergの聖十字架教会)
(2)クリスマスの薪(Wihnachtsklotz/Wihnachtsmurke, la buche de Noel) 24日の夜、深夜のミサに出かける前に、室内全体を暖める陶器製のストーブ(Kachelofe)の中に太い木の棒を入れて燃やす慣習があった。これがクリスマスの薪と呼ばれるもので、室内用ストーブにくべる前によく聖水がかけられていた。ロータンバック・ゼルの村では、この薪は幼児キリストのために部屋を暖めることになると言われていたという。薪の灰は大切に保管され、翌年の夏の間に激しい嵐が来た時には室内用ストーブの中に置かれていた。薪の燃えさしや灰が、家の人たちを落雷から守ってくれるとされていたからである。また、庭や畑にまかれることもあった。というのもこの灰には、自然の豊穣を促し、再生力に拍車をかけ、豊作をもたらしてくれる働きがあると考えられていたからである。今日では同名のケーキがあり、クリスマスの定番のデザートになっている。
(3)クリスマスの一握(Wihnachtshampfel, poignee de Noel) かつて農民たちは、24日の深夜12時になる直前に家畜小屋へ行き、一回分の秣を余計に家畜に与えていた。これが、クリスマスの一握と呼ばれるもので、普段よりも餌の量を増やしてやるのである。人々は、深夜12時に家畜らがクリスマスを祝うために、立ったままでいるか立ち上がるかすると考えていた。そこで、モルキルシュでは、家畜がその瞬間を忘れずに目を覚ましているようにと餌を与えねばならないと考えられ、ダンヌマリでは、ミサの行われている間中家畜が立ち続けている、と信じられていた。さらに雌鶏に対して、深夜12時丁度に庭に弧を描くようにして餌をまき、もし雌鶏が餌を食べれば、ところ構わず卵を産みに行かないと信じられていた。グンスタットでは、聖体奉挙を告げる鐘が鳴るときに、農民が雌鶏の巣の中に炭酸ソーダを置いていた。そうすると、卵が腐らないと考えられていたからである。また、24日の夜にミツバチが巣箱でうなっているときには、巣箱を揺すってやるとたくさん蜂蜜が取れる、とも言われていた。スンゴウ地方のいくつかの村では、村の小学生や若者が、教会広場に置かれた太い棒の上に、クリスマスの束(la gerbe de Noel)を立てていた。これは、子供たちのうちの何人かが村の家々を回って歩き、「さぁ、出してください。さぁ、出してください(Gan jetz uss, Gan jetz uss)」と繰り返し歌いながら、収穫時に作られた幸福の束から麦の穂を一本ずつ集め、教会の聖具室係の手を借りて束にしたもので、小鳥たちのために用意したものである。このように24日の深夜に動物に餌をやることには、動物が丈夫で一年中健康でいてほしいとの願いが込められていた。このことは、ヨハン・フィシャルトが1572年に刊行した『おばあちゃんの知恵大全』にも次のように書かれている。「さぁ、もしお前がお前の家畜に健康でいてもらいたいのなら、クリスマスの晩に、ヨゼフのロバの名のもとに、給餌器の中に場所を作り、給餌器の前の地面の上に食べ物を置いて、餌を与えるんだ」一握の餌を与える慣習は、聖シルベスターの日(大みそか)と公現祭の前日の夜にもあった。どちらも、古い年から新しい年に変わる瞬間として考えられていたときのことである。
(4)言葉を話す家畜 古くから信じられていることの一つに、「24日の深夜12時に家畜が言葉を話せるようになる」というものがある。この瞬間に人と動物とが対等の立場に立つことができると信じられていたのである。このことは、古い年から新しい年へと世界が生まれ変わろうとする瞬間に無秩序状態が生じることから、人間と動物との関係もその始まりの状態に戻ると考えられたからなのかもしれない。すでにストラスブール大聖堂の年代史には、1349年にエルシュタインで起きた「牛が言葉を話した」という奇跡話が残されている。けれどもそれは、実際には次のような笑い話だった。昔この町に、リンダー(子牛という意味)という名前の男がいた。彼は病気で体が弱り、言葉も話せなかった。ところが、鞭打苦行者の一団がエルシュタインにいる間に、彼は回復し、突然言葉を話せるようになったのである。ある者がある者に「リンダーがしゃべった」と言った。これを聞いた鞭打苦行者たちは「家畜小屋の牛どもが言葉を話したそうだ」と伝えたそうである。苦行僧たちが勘違いをした背景には、「クリスマスの夜に家畜が言葉を話せるようになる」という迷信が広まっていたことがあげられるだろう。一方、1830年までヴィッテルンハイムでは、何人かの農民が馬小屋の中に隠れていた。そして馬の世話をする使用人に、深夜12時のミサの間に動物が話をするということを信じ込ませるため、馬の鳴き声を真似し、1年の間にいかにひどい仕打ちを使用人から受けていたかを訴えていたという。家畜は未来も告げると考えられていて、しかも動物たちの会話を聞くことは良くないこととされていた。というのも彼らの告げる予言は必ずしもかんばしいものではなく、話を聞くときつく罰せられると言われていたからである。たとえば、マンシューズの村に、馬小屋の戸に耳を押し付け馬たちの会話を聞こうとした農民がいた。この農民は、馬たちの話を盗み聞きし、ある馬が別の馬にこのように言うのを聞いた。「おれは明日、おれの主人を墓場に連れて行ってやるよ」この予言にショックを受けた農民はその場に倒れ、死んでしまったという。こうして農民は、本当に馬に運ばれ墓地に葬られることになったのである。この話が成立した背景には、ヨーロッパの民間信仰において馬が葬儀と深くかかわりのある動物と考えられていたことがあると考えられている。
(5)十二夜 12月25日から翌年の1月6日までは、十二夜と呼ばれている。これは、一年を354日で数える太陰暦とおよそ366日で数える太陽暦を重ね合わせたときに生じた妥協の産物とでもいうべきものである。この太陰暦の考え方は、今日でもヨーロッパの人たちの生活の中にまだ強く生きている。たとえば、クリスマスや聖ヨハネの日、万聖節などは固定されている祝日だが、復活祭は月の満ち欠けによって毎年変わる移動祝祭日であり、この復活祭の日を中心にして、灰の水曜日やカーニヴァル、四旬節の日、イエス・キリストの昇天祭、聖霊降臨祭の日も決まっているのである。この太陰暦と太陽暦の考え方の中でクリスマスについて考えてみたとき、クリスマスの夜は太陰暦では一年の最後のときであり、翌日は新年と考えられていた。定かではなかったイエスの誕生日は、一年が終わりまた新しく始まる瞬間に置かれていたのである。けれども、太陽暦では、クリスマスの後に十二夜が付け加えられることになる。つまり、それだけ新年までの時間が延び、新年を迎えるまでの時間が宙に浮いてしまったことから、やはりこの期間には様々な民間信仰や慣習が生まれることになった。
たとえば、農村では今日でもまだ、この十二夜の間の天候を細かく書きとめている人がいるという。というのもこの12日間のそれぞれが翌年の各月に対応しており、十二夜の間の天候をカレンダーに書き込み、それを見ながら庭仕事をするか畑仕事をするかといった判断をするためである。アルザスではこの十二夜のことを小さな年('s kleine Johr, la petite annee)とも呼んでいるが、それというのもこの十二夜の期間が翌年の12か月に対応すると考えられていたからに他ならない。また、ふつうは夜の10時頃まで行われていた糸巻仕事が、十二夜の期間中は厳しく禁じられていた。まず、クリスマスの夜には遅くまで糸巻きをしてはならず、フィスリでは、仕事を止めるのを忘れていた糸巻き女たちは、ヘッヒェルガウクレレ(Hechelgauklere)という名の女性の支配下にあると考えられていた。この女性は、深夜の12時前に現れて窓の縁に12本の糸巻き棒を置き、糸巻き女たちに夜の間も糸巻きをさせ続け、もしそれに従わない場合は彼女たちを不幸な目にあわせるというのである。それを避けるには、三位一体の名を唱えながらそれぞれの糸巻き棒に3回だけ糸を巻けばよいとされていた。このように糸車を回すことが禁止されていた背景にはいくつかの理由があげられる。まず、糸車の車輪はしばしば太陽と同一視されていたことから、太陽が弱っているこの時期に糸車を回すことで太陽の運行に負荷をかけるのはよくないと考えられていたこと、次に、糸を紡ぐ糸車は運命の糸を紡ぐ象徴ともみなされていたことから、翌年の予兆となる十二夜の期間に糸車を回すことで、翌年の運命の決定に関与してしまうことは好ましくないとされていたこと、最後に、糸車を回すという行為を十二夜の間に続けることで、この時期にこの世に戻ってくると信じられていた死者や精霊などの怒りをかったり注意を引いたりすることは望ましくないと考えられていたこと、などである。
とりわけ十二夜の期間は、野生の狩人(d’r wild Jager, le chasseur sauvage)が一人で、あるいは幽霊や悪魔の一団を従えて現れると信じられていたことから、彼らの怒りを助長する振る舞いは避けなければならなかった。パン・デピスなどの蜂蜜入りパンは、もともと彼らの怒りを静めるために作られたものである。実際、クリスマスの時期のヨーロッパでは、夜間に激しい轟音とともに強い風が吹き荒れ、木々をなぎ倒さんばかりの勢いで荒々しく揺さぶっていく。こうした激しい天候を目の当たりにした昔の人たちが、それを怒れる野生の狩人とその一行のせいだと考えたであろうことは容易に察せられる。激しい嵐が長い冬の夜の外で吹き荒れるとき、おばあさんは子供たちに次のように話していた。「外で風が泣き呻いているのが聞こえるかい。あの不気味な物音、叫び声、嘆き声は、地獄の一団と一緒に野生の狩人が通って行くところなんだよ」この野生の狩人は、地域によって様々な名前で呼ばれていた。ゲブヴィレールでは、ヒュタタ(Hutata)とかヒュペリ(Huperi)、マスヴォーでは魔弾の射手(Freischutz)、さらには夜の狩人などである。また、一般にその姿は薄暗く不気味で、大きなつば広帽をかぶり、大きなマントを身につけ、片目で、長い白ひげを生やし、白馬にまたがった人物として語られていた。一方、野生の狩人が伴っていた一団は、風の軍勢(Herrwind, armee du vent)、悪魔の軍勢(Teifelsheer, armee du Diable)、夜の狩猟(Nachtgejag, chasse de nuit)、僧侶たちの狩猟(Pfaffengejag, chasse des moines)などと呼ばれ、武具の留め金の音をきしませ、犬の吠え声や鳥の鳴き声をともないながら、また時には甘く魅了する音楽を奏でながら、夜の闇の中を駆け抜けていくと信じられていた。そして、名前を呼ばれることがあり、それにうっかり答えてしまうとたちまち悪魔や亡霊の一団の中に引きずり込まれ、恐ろしい一夜を過ごすことになると言われていた。他にもこの一団の中には、洗礼を受けることができずに死んでしまった乳児、戦死したあと遺体を放置されたままの戦士、死の間際にキリスト教会の儀式に則ることができずに突然死してしまった人、すなわちあの世に行けずにこの世に魂がさまよっていると考えられている人たちもまた、加わっていると考えられていた。説教師ガイラー・ドゥ・カイザスベールはこの一団について「彼らは怒れる軍勢としてディエダ、ディエダと叫びながらいたるところを駆けまわり、鬼ごっこをしたりよりひどい悪戯をするなどして楽しんでいるのである」と述べている。また、この一団の目撃談がいくつか残されていて、たとえばダニエル・スペックリンという人物は、次のように記している。「1123年...あらゆる外れで、ストラスブールでも、モルスハイムでも、フライブルクでも、コルマールでも、アルザス全土で、恐ろしい亡霊どもが昼も夜も目撃された。その数は、10、20、50、100あり、時にはいっぺんに400、500もいた。彼らは馬具をつけ、そのうちの何人かは戦争中に殺されたかのようにバラバラだった。彼らは、自分たちは亡霊ではなく、殺された者たちの魂であると言っていた。馬も武具も火に包まれ、彼らは、彼らを救うためにミサをあげ、供物を捧げ、お祈りし、施しをしにきてくれるようにと切々と訴えていた」さらに1516年にはストラスブールのトラウシュという人物が次のような記録を残している。「1516年にアルザスとブリスガウで、昼も夜も山中と森の中で、怒れる軍勢が(通る音が)聞こえた。死者の一団が太鼓に笛、火のついた大ロウソクを持ち、田舎と都市を横切っていったのである。ある者は自分の頭を持ち、別のある者は自分の腸を抱え、三番目の者は切断された自分の足を持っていた。正面を、一人の男が『どけ、どけ! どうなっても知らないぞ!』と叫びながら歩いていた」この軍勢の先頭に立つ男には、忠実なエッカールト(der treue Eckart, le fidele Eckart)という名前がついていた。冬の時期は、夜が長くなるのを利用してあの世からこの世に死者が押し寄せてくると考えられていたわけだが、同じ時期に猛威を振るう自然を前にしたとき人々はそれを、あの世から戻ってきた死者たちの行列と解釈したのであろう。